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バートランド・ラッセル(著)『自由への道』_訳者による後記(あとがき)

* 出典:バートランド・ラッセル(著),栗原孟男(訳)『自由への道』(角川書店,1953年8月 203pp. 角川文庫n.640/青96)
* 原著:Roads to Freedom, 1918.
*附記:なお、本訳書においては、読者の理解を便ならしめるために本文中に小見出しを加えた。
 (訳者による)後記(栗原孟男:1953.02.08)

 本書は Bertrand Russell: Roads to Freedom, 1918 を訳出したものである。バートランド・ラッセルは、現代における第一流の哲学者であり、また社会・政治・経済問題に関する俊英な論客である。一九二〇年(大正九年)秋、北京大学に哲学を講じたが、翌年わが国にも立寄り、雑誌「改造」に社会問題に関する論文を寄稿したことがある。
 彼は一八七二年(明治五年)イギリスの名門に生れた。一九三一年、兄のあとを襲って、第三代ラッセル伯となったが、彼はこの貴族の称を好まず、みづからは単にバートランド・ラッセルと言っている。その最初の著書「ドイツ社会民主主義」(一八九六年)から最近刊行された「社会に対する科学の衝撃」に至るまで半世紀の永きにわたって世に問うた四十巻余の著述は、彼が最も勝れた数学者・哲学者の一人であり、同時に最も明晰犀利な社会評論家であることを示している。彼は始め数理哲学から出発し、主として知識の問題を究明したのであるが、現実社会の病患を傍観するに忍びず、象牙の塔を出て一般大衆に自由と幸幅への道を説くことに力を注ぐに至った。一九二七年彼は自ら選んだ論文集(松下注:Selected Papers of B. Russell; selected and with a special introduction by B. Russell, 1927 のこと:右下写真参照)の序文のなかで這般(しゃはん=この辺)の推移を明らかにしている。


 私は十一歳になるとユークリッドの勉強を始めたが、それ以来数学には熱情的な興味をもち、同時に科学はあらゆる人間生活の進歩の根源にちがいないと信じた。人類の恩人となることが少年時の私の望みであった。公共心をもつことは当然のこととされていた環境にあったので特にそうであった。私は数学から科学へ移行しようと考え、成長期のガリレオやデカルトを感奮させたかも知れないような白日の夢を追って、友達もなく暮した。しかし私には純粋数学に対する才能はあっても科学に必要な実際的熟練が全く欠けていることがわかった。その上に、数学のなかでも私が一番得意としたのは最も抽象的な部分であった。私は楕円関数には少しの困難も感じなかったが、光学を究め尽くすことはどうしてもできなかった。こういうわけで、科学に生涯を捧げることは断念したのである。
 同じ頃、私は次第に哲学に心を惹かれるようになったのであるが、よくあるように倫理的なあるいは神学的な慰安を得ようとするためではなく、われわれは果して知識と呼び得るものを有するかどうかを見出そうと欲したからであった。十五歳の時、私は意識のほかいかなる事実も確実ではないと日記に記入した。(現在では私は「この」(意識という)例外をも認めない。) 数学は一般的知識として認められている爾余一切のものよりも確実性があると私は考えた。しかし十八歳の時ミルの「論理学」を読み、彼の軽信的なことに唖然とした。算術と幾何学との確実性を証するために進めたミルの論旨は、私の疑惑を裏づけるようなものであった。そこで私はまず第一に数学の確実性の根拠が確かめ得られるかどうかを究めようとした。
 これは相当骨の折れる仕事であった。時に離れることはあったが、一九一〇年に至るまでこの仕事に従事した。その年ホワイトヘッド博士と共同して「数学原理(プリンキピア・マティマティカ)」の原稿を完成したが、それは二十年以上も前に私を困惑させ始めた問題を解決するに役立つ出来るかぎりの成果を収めたものである。しかし主要な問題はもちろん未解決のまま残ったが、偶然にもわれわれは哲学の新しい方法と数学の新しい分野とを見出すに至った
 「数学原理」の完成後、私はもはや従来のように一種の仕事にのみ没頭する必要はないと感じた。顧みると、私が政治に興味を持たなかった年頃というものはない。私は未だ物を読むことができない頃に早くも英国憲政史を教え込まれた。一八九六年に出版された私の最初の著書はドイツ社会民主主義の研究であった。一九〇七年以後、私は婦人参政権獲得運動に積極的に力を尽くした。一九〇二年には、「自由人の崇拝」および二篇の論文(一つは数学に関し、他は歴史について)を書き、同一の思想を表明した。しかしながら若し戦争がなかったならば、おそらく私は主として学的な、また抽象的な世界に安住したであろう。一九一四年に先だつ幾年かの間、私はヨーロッパ諸大国の政策を憂慮しつつみまもっていた。そして開戦についてすべての交戦国政府が発表した表面的な芝居がかった説明を全く容認することができなかった。開戦当初の一般人の態度、殊に人々が戦争の興奮状態の中に一種の快楽を見出しているということ、およびあらゆる種類の作り話をたやすく信じてしまうということは私を驚歎させた。世は化して痴人の楽園となったことは明白であった。人性は--みづから文明人をもって許している人々の場合でさえ--私の考え及ばなかった暗黒の深所を藏していたのであった。私が確実視していたところの文明は、ローマの崩壊にも比すべき惨害を惹き起しかねない破壊力を生み出し得るものであることを示した。私の貴重とした一切のものは危殆(きたい)に瀕し、それを憂えるかに見えたものは極めて寥々たるものであった。
 戦争の続くかぎり、抽象的な学問研究は私にとって不可能であった。応召した兵士なみに私も応分の奉公をする必要を感じたけれども、いづれの側の勝利も問題を解決するであろうとは考えられなかった。一九一五年に私は「社会再建の原理」(アメリカでは「何故人は戦うか」と題されている)を書き([出版は1916年)、人々が戦争に倦き、平和社会建設の問題に関心をもつに至ることを切望した。このことたるや、一般人の衝動や無意識の欲望を変化させなければならないことは明らかであった。しかし最近の心理学はこのような変化は大なる困難なしにもたらされ得ることを示している。また、専門家にだけ訴えるものを書いていては何事をも達成し得ないことは明らかであった。そこで戦争の期間を通じて、成功はしなかったけれども私は一般大衆に読まれるような著述をすることに努力した。戦争が終った時、私はそうする機会があったにも拘らず、純粋な学的生活に復帰することはできないことを知った。私の関心をそそる問題は、もはや一九一四年以前に私の関与したところのものではない。今は書斎に入るとき自分の頭から現実世界を締め出してしまうことは不可能となった。これが進歩であると私は敢て言うものではない。単に事実を記したまでである。

の画像  「自由への道」は、第一次世界大戦の末期に、一般大衆のために執筆されたものである。その頃ラッセルは戦争に反対して驚愕の論を唱え、罰金を科せられ、蔵書は没収され、大学からは追放された。ハーヴァード大学から招聘を受けたが、当局は彼に対して渡米のための旅券の発給を拒否した。連続講演--これは一九一八年(松下注:1917年の間違い)アメリカで「政治の理想」と題して刊行された--をなそうとしたが、軍部の阻止するところとなった。やがて「トリビューナル(Tribunal)」に発表した平和論のために彼は六ケ月間禁獄の厄に遭った。このような圧迫を加えられながらも少しも屈することなく、敢然として個人の自由を主張し、社会改造の方途を究め、警世の論を成したラッセルの勇気と達識とは誠に驚歎に値する。
 訳者が始めて「自由への道」を手にしたのは昭和の初年、未だ学生の頃であった。当時わが国の知識層の間にはマルキシズムが流行し、本書も可なり読まれたようであったが、日本の社会思想の水準は本書を正当に迎え得るほど高くはなかった。十数年の歳月が流れ、第二次世界大戦が日本に敗戦をもたらして終った時、日本の社会状態は本書のために熟したのである。終戦後ラッセルの諸著書を再読し、それらがいかに新しいかを知り、実に感歎を禁じ得なかった。同時に感慨無量なるものがあった。敗戦日本の当面する諸問題の由って来るところが実に掌を指すように説かれている。われわれは敗戦によってわれわれを今日導いたもろもろの病源を正視し得るに至ったのであるが、ラッセルは早くも第一次世界大戦のさなかに、世界的視野においてそれらの病根に対する確実な診断を下し、透徹した治療の方法を述べた。十数年前には理想家の夢を説いたものとして軽く読み去ったラッセルの諸著書を、今こそわれわれは、われわれを混沌のなかから導き出す救いの書として、心を虚しうして読まなければならないことを感ずる。
 幻(vision のことか?)なければ人は滅ぶ。われわれは戦後の虚脱状態とそれに続く混乱と彷徨とのなかから、われわれ自身のヴィジョンを逞しく浮かび上がらせなければならない。「自由への道」はそういうわれわれに勇気とより所とを与えるものである。
 ラッセルは「太陽の下にある何ものによっても畏怖せしめられることを拒否する精神」の持主である。彼は問題を正視する。そして哲学者の明確さをもって判断する。何ものも彼を強制して謬らしめることはできない。社会改造の夢を説くに当たっても、彼は決して熱烈な説教者の態度をとらない。あくまで科学的・論理的に理想郷の設計図を描いて行く。しかしながらこれを深く読むものは、明暢な行文の底に、著者の強靱無比な頭脳と人類に対する熱愛の情を看取して湧き上る感動を覚えずにはいられない。

 今年八十一歳のラッセルは決して隠退した碩学というようなものではない。一九五〇年には彼に対してノーベル文学賞が与えられた。そして「人道および思想の自由の戦士としての彼の多方面にわたる勝れた著述」の価値が顕彰されたのである。嘗てはその同じ著述によって彼は投獄せられたのであり、またニューヨーク市立大学の教壇に立つことを拒否されたのであった。
 古稀を迎えてから今日までに彼は十冊の新著を公にした。その中にはあの浩瀚な「西洋哲学史」も含まれている。八十歳になった彼はまた初めて小説を書き、その一篇を匿名でイギリスの雑誌 'GO' に発表した。近く五篇の短篇小説を収めた一卷が彼の名を明記して刊行される筈である。昨年の末には四度目の結婚をして世間に話題を提供した。新夫人は嘗てブリン・モウア大学で英文学を講じ、のちにラッセルの秘書となったエディス・フィンチ女史である。
 現在彼はいよいよ元気で、椽大(てんだい)の筆をふるっては警世の文章を草し、また講演し放送する。一九五〇年に彼は「世界の終末が期待された西暦一千年以後今日までの間に、現在西欧を悩ましているような、これほど普遍的で深刻な不安の時代というものは嘗てなかった」と書いた。西欧ばかりでなく、自由世界の諸国民のすべてが戦争の恐怖に戦っているとき、哲人ラッセルはその八十年の思索と経験から生れた確信をもって人々に恐怖を克服し、憎悪を去り、希望を持ち、自由と幸福へ到る道を指し示す。
 彼はユナイテッド・ネイションズ・ワールド誌の一九五三年一月号に、「一九五三に幸福であるためには」という論文を書き、現在われわれの生活を不幸にしている病根を鮮かに摘出し、それに対する治療の力法を述べた。その中で彼は言っている--
われわれは生命を維持するに足る最小限の物的必需品を有しているかぎり、われわれを圍繞(いぎょう?)する危険のさなかにあってさえ快活であり、生活を楽しむことは可能である。しかしそうしようとすれば、われわれは恐怖を克服する術を学ばなければならない。人生の或る一面に没頭するのあまり他のすべての面を忘れてしまうことのないよう、自戒しなければならない。仕事に全精力を打込んでしまって、愛情生活やのんびりし娯楽に割くべき何ものも残らぬというようではいけない。心に憎悪の念が生じたならば、それは己れの心の中の不満が或る個人乃至団体に転嫁されて憎むべきものとなっているのではないかと反省すべきであるわれわれは、個人乃至団体が協力によってたがいに及ぼし得る善は、競争に打ち勝って得られる善よりも大きいものであることを悟るべきである。われわれは一般に感情生活においては制限的であるよりも伸張的であらねばならない。このことに成功するならば、他人に対するわれわれの気持ちは敵対的ではなく、友好的になって行くものである。」
 人類を危険な臨断崖の縁にまで追いつめた科学の発達を論じた彼の最も新しい著書の中に次の一節がある、
「若し人間の生命が科学の影響にも拘らず存続すべきものであるならば、人類は激情を抑制する術を学び取らなければならない。このことは過去においては必要がなかった。・・・。事の根本は極めて単純で古風なものである。余りにも単純であるがために、利口な皮肉家たちから冷笑されはせぬかとそれを口にすることがためらはれるほどである。それはすなはち--どうかそれを口にすることを許していただきたい、--愛である。キリスト教的愛、憐れみの念である。愛を感ずるならば人は生存の動機を有し、行動における指針、勇気を生む理由、断固として知的廉潔を持するの必要を有するのである。幸福を見出すことはできないにせよ、目的のない生活を送っている人々にあるような深刻な絶望感にとらえられることは決してない。人間生活の悲惨さの恐るべき総量を減ずるために爲し得ることが常に存するからである。」
 これは実に注目に値する。哲学者・科学者バートランド・ラッセルの到達し得た最高の叡智を示すものだからである。ラッセルは一九三七年に「一九六二年六月一日にロンドン・タイムズに掲載されるものとして」、自分自身の死亡記事を書いている。自己の寿命を九十年と予測したのである。われわれはこの一世の木鐸、「永遠の時において」生き且つ「無限の空間において」思索するこの偉大な哲人がみづから定めた寿命をはるかに超えて永く生きられんことを切に祈るものである。
 一九五三年二月八日  訳 者