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市井三郎「『(バートランド・ラッセル)社会改造の諸原理』解題」

* 出典:[解題] 市井三郎『(バートランドラッセル)社会改造の諸原理』【『ラッセル』(河出書房新社,1970年2月刊 世界の大思想 v.26)所収】
* 原著:Principles of Social Reconstruction, 1916.


 第一次大戦の戦闘がもっとも激しかった年、つまり一九一六年の前半に、ラッセルがおこなった一連の公開講演を著書にしたものである。当時のかれは、イギリスの平和主義プロパガンダの主要な組織であった「徴兵反対同盟」(No Conscription Fellowship, 略してNCF)の委員として、活発に反戦運動をやっており、その年六月には、「帝国軍隊の徴募および軍律を危うからしめる発言」の故に、罰金百ポンドに処せられていた。その直後にもかかわらず、やはり平和主義者であった出版者アンウィン(Stanley Unwin)が、あえて刊行をひき受け上梓したのが本書だった(出版社はしたがって George Allen & Unwin Ltd. である。/松下注:右下の写真は、Allen & Unwin 社から出されていたラッセルの著作のカタログ)。
の画像  これが機縁となって、アンウィンとラッセルとのあいだに以後長年月にわたる親交関係が生じ、ラッセルの著書をドイツはおろかインドや日本にもひろく読まれるものとした功績は、アンウィンに帰せられるという。ちなみにラッセルが、中国滞在ののち一九二一年(大正一〇年)に日本へきたときは、『社会改造の諸原理」の著者として招かれたのである(松本悟朗氏による翻訳が出ていた。おそらくこれが、日本語に訳された最初のラッセルの著書だろう/松下注:1919年11月に、文志堂から出された高橋五郎の訳の方が先)。ついでながら本書のアメリカ版は同じ一九一六年に、ニューヨークの The Century Co., から刊行されたが、表題だけは違っており、『なぜ人間は闘うか一国際的決闘を廃止する方法』(Why Men Fight; a method of abolishing the international duel)となっている。翻訳の底本には、イギリス版の第五刷(一九一九年)を用いた。
 この本の内容が講演されているとき、聴衆の一人にリットン・ストレイチー(Strachy, Giles Lytton. 1880-1932.)がいた。かれはそのときの印象をこう語っている。「昨日いつもより疲れていたが……カクストン・ホールまで足をはこんだ甲斐があった。かれ〔ラッセル〕があらゆるものを見放してしまう図はまさに見ものだ--政府、宗教、法律、財産ばかりか、淳風美俗さえもかれにかかっては木っ葉微塵だ。まことに一大偉観というべし。それに、かれの建設的着想がこれまた雄大だ。かれは一旦こわしたものを集めてそれを組み立て、われわれの眼の前でそれを堂々と据えて見せる。今日、世界ひろしといえども、あれほど手強い男はほかにいまい・・・。」(A.ウッド『ラッセル伝』、碧海純一訳、一五九ぺージ)。

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 つまり本書は、人間社会のほとんどあらゆる側面に対して、ラッセルが因習破壊的な思想をもっとも集約的にうち出した著作なのである。ふつうラッセルは、数理哲学や高度に専門的な認識論の仕事によって、理性を尊重する主知主義的な思想家だと考えられがちである。しかし本書においてラッセルは、人間のさまざまな営みに、知的な目的意識よりは心理の奥底にひそむ衝動の方が、いかに根強い規制力をもつかということの確認にもとづいて、一つの平和主義的社会哲学をつくりあげているのだ。衝動を大別して、所有衝動と創造衝動にわけ、人間社会におけるもろもろの悪を前者に属する衝動群に派生するとみなす-しかもその種の諸衝動が、旧来の社会諸制度によっていかに助長されてきたか、という点にも仮借することのない考察を展開する彼は、国家形態、制度としての戦争、財産と生産とをめぐる経済的諸制度、教有、性、宗教、等々あらゆる旧体制を「木っ端微塵」にしなければならなかった。
 それに代って、人々の創造的衝動を助長するには、どのようなもろもろの制度を案出すればいいのか。たんに戦争行為がないというだけの平和ではなくて、人間がもつ創造衝動がもっともよく開花しうるような平和な世界、それをつくりだす方途を考えることは、政治・社会哲学の最大の課題であり、ユートピア的構想力と科学的探究心との間断ない自己修正の努力が必要な課題である。一九一五年に書かれたこの本の原稿を、翌年に著書として刊行するに当って、すでにかれ自身が自分の提案に不満であった(「まえがき」にもあるとおり)。しかし基本的な改善の方向について、本書にのべられたことは半世紀後の現在にいたるまで、かれの諸著述を貫ぬいて変らない。
 その基本的方向とは、生命力(活力)を助長する諸衝動の解放ということである。例外的な天賦の知能がなくても、あらゆる人々には多かれ少なかれ、生命力を助長する三つの力があるとラッセルはいう。それは愛、建設本能、生活を楽しむ力、の三つである。成功とは何か、についての因習的な考え方は、他人の目的を遂行することにあくせくする人間をつくり、おしつけられた目的意識の過剰から真の生命力を萎縮させた人間・社会をつくってしまう。より多くの物質財だけが追求されずに、より多くの自己による方向づけ、建設本能へのより多くのはけ口、生命の歓喜へのより多くの機会、などを提供する方向へ諸制度を改善しなければならないという(とくに第一章)。また「愛」の問題についての第六章と第七卓、また伝統的な社会主義の考えが、以上のプログラムから見れば部分的な目標にしかならないこと(第四章)など、現在この本を読む読者は、かれの見解がどれほど予見的であったかに打たれるだろう。
 理論哲学の分野で、何が良いか悪いかについて理性的根拠を呈示しえない、という立場をとるラッセルが、以上のような基本方向を「良い」と判断する基準は何か。かれに特有な「より多くの両立性」という論拠-例えば、多数の人間が所有欲をもてば各人の欲望充足がたがいに両立しない場合が多くなるが、創造欲ではその不両立性が少なくなるという議論--は、この本で初めて唱えられたのであり、これまたかれの生涯を貫ぬく説得原理の一つとなったものである。西欧近代の社会思想は、ここに一つの総決算を示していると見ることができよう。