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ラッセル(著)、清水義夫(訳)「指示について」
『現代哲学基本論文集』第I巻(勁草書房、1986年)pp.47-78.

* 清水義夫氏(しみずよしお:1939〜 )は、本書出版当時、千葉工業大学教授、論理学専攻
*(訳者による)凡例:

・この論文は、論文集 Bertrand Russell, Logic and Knowledge.(George Allen & Unwin Ltd., 1956)に所収されている一篇 On Denoting, 1905 の翻訳である。なおこの論文は、もともとは雑誌 Mind, n.s., v.14(1905)に発表されたものである。
・原文のイタリック体は、訳文では圏点を添えて表わした。(→松下注:ここではイタリックにしました。)
・原注は算用数字(1)、(2)等で示し、訳注は漢数字(一)、(二)等で示した。
・訳文は少しぎこちなくなったが、論文の性格上、直訳に近いかたちにした。
* 松下注:On Denoting は通常、「表示について」と訳されている


 「指示句(denoting phrase)」という語によって、私は以下のような句を意味する。すなわち、あるひとりのひと(a man)、あるひと(some man)、いずれかのひと(any man)、それぞれのひと(every man)、すべてのひとたち(all men)、現在のイギリス王(the present king)、現在のフランス王(the present king of France)、二十世紀最初の瞬時における太陽系の質量中心(the centre of mass of the solar system…)、太陽をまわる地球の回転(the revolution of the earth round the sun)、地球をまわる太陽の回転(the revolution of the sun round the earth)。このように、こうした句はもっぱらその形式によって指示をしている。ここで以下の三つの場合を区別できる。
 (一)ある句は指示句ではあるが、いかなる対象をも指示していないことがありうる。たとえば「現在のフランス王」。
 (二)またある句は一個のある定まった対象を指示することもありうる。たとえば、「現在のイギリス王」は、ある特定の一人物を指示する。
 (三)さらにまたある句は、不特定に指示することもありうる。たとえば、「あるひとりのひと」は、多くのひとびとを指示するのではなく、不特定なあるひとりのひとを指示している。
 さて、こうした句の解釈はかなり難しい事柄である。実際、形式的な論駁を受けないですむような理論をつくり出すのは非常に困難である。しかし私がよく知っている困難な点のすべては、私が現在見出しうる限りで、これから説明しようとしている理論によって対処されることになろう
 指示についての問題は、論理学や数学においてばかりではなく、知識論においてもきわめ重要である。たとえば、特定の時刻における太陽系の質量中心は、ある特定の空間点であることをわれわれは知っており、またそれについての多くの命題を承認することができる。しかしわれわれは、この空間点を直接的に見知ることはなく、記述によって知りうるのみである。見知り(acquaintance)と、についての知識(knowledge about)との区別は、われわれが直接表象するものと、指示句によってわれわれが到達するにすぎないものとの区別である。ある句が、その指示しているものについての見知りをわれわれがもっていないにもかかわらず、何かを明瞭に指示していることは、われわれのよく知るところである。このことは、質量中心という上記の場合にも生じている。知覚においては、われわれは知覚の対象についての見知りをもっており、また思考においても、われわれはより抽象的な論理的性格をもつ対象についての見知りをもっている。しかしわれわれがその意味を知る単語から構成される句によって指示される対象については、われわれはその見知りを必ずしももっていない。非常に重要な例をとりあげてみよう。
 われわれは他のひとびとの心が直接には知覚されないことを知っており、それらについてわれわれが見知っていることを信ずる何らの理由もないように思われる。したがって、われわれがそれらについて知っていることは、指示を通して得られているのである。すべての思考は、見知りから出発しなければならない。しかしながらわれわれは、その見知りをもたない多くのものについて思考することにも成功しているのである。

 私の議論の順序は以下のようになろう。まず私が主張しようとする理論(1)を述べることから始める。つぎにフレーゲとマイノングの理論について議論し、そのいずれもがなぜ私には不満であるかを示す。それから私は私の理論のための根拠を提出し、そして最後に私の理論の哲学的な帰結を手短かに指摘することになろう。

(その2)

 私の理論(一)は、簡単には、以下のようなものである。私は変項(variable)という概念を基礎的なものと考える。私は「C(x)]を、xが構成要素となっている命題(2)を意味するものとして使用する。ただしこの変項xは、本質的にしかも全く未確定なものである。すると、「C(x)はつねに真である」(二)と「C(x)はあるときには真である」(3)(三)という二つの概念を考えることができる。そしてあらゆるもの(everything)、いかなるものでもないもの(nothing)、あるもの(something)――これらは指示句の最も基本的なものであるが――は、つぎのように解釈される。

 C(あらゆるもの)は「C(x)はつねに真である」を意味する。
 C(いかなるものでもないもの)は「「C(x)は偽である」はつねに真である」(四)を意味する。
 C(あるもの)は「「C(x)は偽である」がつねに真であるということは偽である」(五)を意味する(4)

 ここで「C(x)はつねに真である」という概念は、これ以上分析できず、定義不可能なものと考えられ、他のものはこの概念によって定義されるのである。あらゆるものいかなるものでもないものおよびあるものは、それだけで孤立してはいかなる意味を持つとは考えられない。意味は、それらが現われてくる命題の各々に対して問題となる。そしてこの点こそ、すなわち指示句はそれ自身だけでは決していかなる意味も持たず、それらを言語表現の一部として含んでいる命題の各々が意味を持つということこそ、私が主張したいと思っている指示の理論の原理である。指示に関しての困難な点はすべて、指示句を言語表現の一部として含んでいる命題に対して、誤った分析をした結果によるものと思われる。私が誤っていなければ、さらに以下のように、適切に分析してみることができる。
 いま「私はあるひとりのひとに会った」という命題を解釈したいとしよう。もしこの命題が真であれば、私はある特定のひとに出会ったのである。しかしそれは私が肯定しようとしていることではない。私が主張する理論によれば、私が肯定しようとしていることはつぎの通りである。

 「「私はxに出会った、そしてxは人間である」は、つねに偽ではない。」(六)

 一般に、ひとびとのクラスを人間であるという述語が適用できる対象のクラスとして定義すると、

 「C(あるひとりのひと)」は「「C(x)かつxは人間である」はつねに偽ではない」(七)を意味する。

 このような考え方は、「あるひとりのひと」をそれだけでは全く意味の欠けたものとしてしまうが、「あるひとりのひと」をその言語的表現の一部として含んでいる命題の各々には意味を与えることになる。
 つぎに「すべてのひとびとは死ぬ」という命題を考えてみよう。この命題(5)は実は仮言的であり、もしあるものがひとりのひとであるならばそれは死ぬ、ということを述べている。すなわちそれは、xがたとえいかなるものであれ、xがひとりのひとであるならxは死ぬ、ということを述べているのである。それゆえ、「xはひとりのひとである」のところを「xは人間である」に置き換えるとき、つぎのことが分かる。

 「すべてのひとびとは死ぬ」は「「もしxが人間であるなら、xは死ぬ」はつねに真である」(八)を意味する。

 これは記号論理学において「すべてのひとびとは死ぬ」が「「xが人間である」はxどんな値についても「xは死ぬ」を含意する」を意味すると言われることに他ならない。さらに一般的にはつぎのようになる。

 「C(すべてのひとびと)」(C(all men)は「「もしxが人間であるなら、C(x)は真である」はつねに真である」(九)を意味する同様にして、

 「C(いかなるひとでもないひと)」(C(no men))は「「もしxが人間であるなら、C(x)は偽である」はつねに真である」(十)を意味する。

 「C(あるひとびと)」(C(some men))は「C(あるひとりのひと)」(C(a man))と同じことを意味することになろう。そして

 「C(あるひとりのひと)」は「「C(x)かつxは人間である」はつねに偽であるということは偽である」(十一)を意味する。

 「C(それぞれのひと)」(C(every man))は「C(すべてのひとびと)」(C(all men))と同じことを意味することになろう。


(その3)

 定冠詞(the)を含む句の解釈(一二)が残っている。これらは指示句のうちでも群を抜いて最高に興味深くまた困難なものである。「チャールズ二世の父(the father of Charles II)は処刑された」を例にとろう。これは、チャールズ二世の父であってしかも処刑されたあるひとりのxなるものが存在した、ということを言明している。さて定冠詞(the)は、それが厳密に用いられるときには、一意性を内含している。確かに、しかじかのひと(So-and-so)がいく人かの息子をもっている場合でさえ、、'the son of So-and-so' という表現を使用するが、本当はその場合には 'a son of So-and-so' という方がより正しいといえよう。それゆえわれわれの目的のためには、the は一意性を内含しているものと考えていく。したがって、われわれが「xはチャールズ二世の父であった( was the father of Charles II)」というとき、xがチャールズ二世と何らかの関係をもっていたということだけではなく、同時に他のいかなるものもこの関係はもっていなかったということをも言明しているのである。問題となっているこの関係は、一意性を仮定しない場合には、しかもまたいかなる指示句も使わない場合には、「xはチャールズ二世を子としてもうけた」によって表現される。「xはチャールズ二世の父であった」と同値な表現をうるためには、「もしyがxと異なっているなら、yはチャールズ二世を子としてもうけなかった」をつけ加えるか、あるいはこれと同値な「もしyがチャールズ二世を子としてもうけたら、yはxと同一である」(一三)をつけ加えなければならない。よって「xはチャールズ二世の父である」はつぎのようになる。すなわち、「xはチャールズ二世を子としてもうけた、そして「もしyがチャールズ二世を子としてもうけたなら、yはxと同一である」はyに関してつねに真である。」(一四)

 すると「チャールズ二世の父は処刑された」はつぎのようになる。すなわち、
 「xはチャールズ二世を子としてもうけたということ、およびxは処刑されたということ、そしてさらに「もしyがチャールズ二世を子としてもうけたなら、yはxと同一である」がyに関してつねに真であるということは、xに関してはつねに偽ではない。」(一五)

 これは多少信じがたい解釈のようにみえるかもしれない。しかし今のところ私は理由を示すことはせず、単に理論を述べるにとどめる。
 「C(チャールズ二世の父)」を解釈するためには、Cが彼についての何らかの陳述を表わしているとして、C(x)を上記した文の「xは処刑された」のところに代入しさえすればよい。すると、上の解釈にしたがえば、Cがどのような陳述であろうとも、「C(チャールズ二世の父)」はつぎのことを含意していることが見てとれよう。"

 「もしyがチャールズ二世を子としてもうけたなら、yはxと同一である」がyに関してつねに真である、ということはxに関してつねに偽ではない。」(一六)

 すなわちこれは、日常の言語で「チャールズ二世はひとりの父をもっていたのであり、それ以上にはもっていなかった」と表現される事柄に他ならない。したがってもしこの条件が満たされない場合には「C(チャールズ二世の父)」といった形式の命題のすべてが偽となる。それゆえ、たとえば「C(現在のフランス王)」といった形式の命題のすべては偽である。これは、いま述べている理論がもつ大きな利点ある。はじめはそれが矛盾律に反するものと考えられるかもしれない。しかし後にそれが、反するものでないことを示すことになろう。上に述べたことは、指示句を含むような命題のすべてを、そうした句を含まない形式のものへ還元することを可能にする。なぜそのような還元をすることが是非必要なことであるかについては、以下に続く議論において示すことに努めよう。

(その4)

  上述した理論が正当であることは、もし指示句がそれを言語表現の一部として含む命題の正真正銘の構成要素を表わすとみなされるならば、避けられないと思われるいくつかの困難が生じてしまうということから、明らかとなる。このような構成要素を容認する可能な理論のうち、最も簡単なものが、マイノングの理論である。この理論では、文法的に正しい任意の指示句は、ある対象を表わしているとみなされる。それゆえ「現在のフランス王」、「円い四角」なども正真正銘の対象と仮定される。このような対象存立(subsist)しないことは認められるが、それにもかかわらずそれらは対象であると仮定されるのである。これは本質的に難点を含んだ見解である。そしてその主な難点は、このような対象が明らかに矛盾律に違反してしまいがちである、ということである。たとえば、存在する現在のフランス王は存在すると主張されるとともに、存在しないとも主張される、また円い四角は円いと主張されるとともに円くないとも主張される、などである。しかしこれは容認できないことである。そこでもしある理論がこのような結果を避けることが見出されうるならば、確かにそれはより望ましい理論である。
 上述したような矛盾律の違反は、フレーゲの理論によって避けられる。彼は、指示句に内包的意味(meaning)と外延(denotation)(一七)と呼びうる二つの要素を区別する(8)。それゆえ「二十世紀最初の瞬時における太陽系の質量中心」は、その内包的意味については非常に複雑であるが、その外延はある一定の空間点であり、それは単純である。太陽系、二十世紀などは、内包的意味の構成要素である。しかし外延は何らの構成要素も全くもっていない(9)。この区別の一つの利点は、なぜ同一性を言明することがしばしば価値あることなのかということを、それが明らかにしてくれるところにある。われわれが「スコットはウェイヴァリーの著者である」というとき、われわれは異なった内包的意味をもつ外延の同一性を言明しているのである。しかしながら私は、この理論に有利となる根拠を繰り返すことはしないであろう。すでに私は他の場所(前記引用書)でその主張を強調しており、いまはむしろそれらの主張を論駁することに関心があるからである(一八)
 指示句は内包的意味を表現するとともに外延を指示するという見解(10)を採用したとき、われわれが直面する第一の難点の一つは、当の外延が不在であるような場合に関係する。われわれが「イギリス王ははげ頭である」というとき、それはおそらく「イギリス王」という複雑な内包的意味についての陳述ではなくて、その内包的意味によって指示されている現実の人間についての陳述であるといえよう。しかし今度は「フランス王ははげ頭である」を考えてみよう。形式が等しいことから、これはまた当然「フランス王」という句の外延についての陳述であるべきである。しかしこの句は、「イギリス王」が内包的意味をもっているならこれも内包的意味をもっているが、にもかかわらず少なくとも明白なかたちでは、確かにいかなる外延ももっていないのである。ここから、「フランス王ははげ頭である」は無意味であるべきだと考える者もあろう。しかしそれがはっきりと偽である以上、それは無意味ではない。あるいは他のつぎのような命題も考察してみよう。すなわち「もしがただ一個の成員をもつクラスであるなら、その一個の成員はの成員である。」あるいは同じことであるが、「もしが単元クラスであるなら、そのなるものである(the u is a )」 この命題は、仮定が真であるときはいつも結論も真であることから、当然つねに真であるべきである。しかし「そのなるもの」(the u)は指示句である。したがって、である(is a u)と述語づけられているのは、その内包的意味の方についてではなく、まさにその外延についてなのである。いまもし、uが単元クラスでないならば、「そのなるもの」(the u)はいかなるものも指示しないように思われる。それゆえわれわれの命題は、uが単元クラスでない場合には、ただちに無意味となるように思われるのである。

(その5)

 ところでこのような命題が、単にそれらの仮定が偽であることから、無意味にならないことは明白である。テンペストに登場する王が、「もしフェルディナンドが溺れていなければ、フェルディナンドは私のただひとりの息子である」と言うことも可能である。ここで「私のただひとりの息子」は指示句であり、それは文面上では、王が正確にひとりの息子をもっているときに、しかもそのときにのみ、外延をもつのである。しかしそれにもかかわらず上記の言明は、もしフェルディナンドが実際に溺れていたとしても、真のままであったであろう。それゆえわれわれは、一見したところでは外延がないような場合にもそれを用意しなければならないか、あるいは外延は指示句を含んでいる命題において関係してくるものであるという見解を放棄しなければならないか、そのいずれかである。後者が私の主張する方向である。前者の方向は、マィノングによってなされたように、実際には存立しない対象を容認し、しかも矛盾律にしたがうことを否定することによって採用されうる。しかしながらこの方向は、できれば避けられるべきである。これと同じ方向(いま問題にしている選択肢に関するかぎりではあるが)をとるもう一つの別の方法は、フレーゲによって採用されている。彼は定義によって、ある純粋に規約的な外延を、それ以外の仕方ではいかなるものも存在しないであろうような場合に、用意するのである。それゆえ「フランス王」は零−クラスを指示することになり、また「某氏(彼は十人からなるすばらしい家族をもっている)のただひとりの息子」は、彼のすべての息子からなるクラスを指示することになる、などなどである。しかしこのような処置は、実際の論理的な誤謬に導くことはないかもしれないが、明らかに人為的であり、事態の正確な分析を与えてはいない。それゆえ、指示句が一般に内包的意味と外延との二つの側面をもつことを認めるとすると、いかなる外延も存在しないと思われる場合において、現実に外延が存在すると仮定したときにも、また現実にはいかなるものも存在しないと仮定したときにも、困難に出会ってしまうのである。
 論理学での理論は、いくつかの難問を処理するその能力によって、試験されうるといえよう。そして論理について考える場合には、できるだけ多くの難問に対処できるように心備えしておくことが健全な策である。というのもそれらが、ちょうど自然科学においての実験によってなされると同じ役割を演じてくれるからである。そこで私は、指示に関する理論が当然解決すべき三つの難問を述べることにしよう。そしてその後で、私の理論がそれらを解決することを示すであろう。
 (1)もしaとbとが同一であるなら、一方について真であることはどんなことであれ他方についても真であり、そしてまたそのどちらについてもその一方は、任意の命題においてその命題の真偽を変更することなしに、他方に代入することができる。さて、ジョージ四世はスコットがウェイヴァリーの著者であるかどうかを知りたいと思っていた。ところで実際、スコットはウェイヴァリーの著者であった。すると、「ウェイヴァリーの著者のところにスコットを代入することができる。そしてその結果われわれは、ジョージ四世はスコットがスコットであるかどうかを知りたいと思っていた、ということを証明できるのである。しかし同一律にヨーロッパ最初の紳士が関心があったとはほとんど考えられない。
 (2)排中律により、「AはBである」かあるいは「AはBでない」かのどちらかが真でなければならない。それゆえ「現在のフランス王ははげ頭である」か、あるいは「現在のフランス王ははげ頭ではない」かのどちらかが真でなければならない。しかしたとえわれわれが、まずはげ頭であるものを列挙しつくし、つぎにはげ頭でないものを列挙しつくしたとしても、われわれは当然のことながら現在のフランス王をどちらの表にも見出さないであろう。総合の好きなヘーゲル主義者達は、多分彼はかつらをつけていると結論するであろうが。・・・
 (3)「AはBとは異なっている」という命題を考えてみよう。もしこれが真であるなら、AとBとの間には差異があるのであり、その事実は「AとBとの間に差異が存立する」という形式で表現されうるであろう。しかしもしAとBとが異なるということが偽であるなら、AとBとの間には差異はなく、その事実は「AとBとの間に差異は存立しない」という形式で表現されうるであろう。しかしどのようにして非実体的なものが命題の主語でありうるのであろうか。「私は考える、ゆえに私は存在する」は、もし「私は存在する」が私の実体的な存在ではなく存立や存在(11)を言明しているとみなされるかぎり、「私は命題の主語である、ゆえに私は存在する」が明証的でないのと同様に、少しも明証的ではない。それゆえ、ここからも明らかであろうが、あるものの存在を否定することは、つねに自己矛盾的にならざるを得ないであろう。しかしまた、存在を容認することもときどき矛盾に導いてしまうことは、マィノングと関連したところですでに見たとおりである。そこで、もしAとBとが異なっていない場合には、「AとBとの間の差異」というような対象が存在すると仮定することも、存在しないと仮定することも、どちらも等しく不可能なことのように思われる。

(その6)

 内包的意味の外延に対する関係は、ある多少奇妙ないくつかの難点を含んでいる。そしてそれらの難点は、それだけで十分に、このような難点に導く理論が必ず誤っているにちがいないということを証明するように思われる。
 われわれが指示句の内包的意味について、その外延と対比したかたちで語りたいと思うときには、引用符を使うのがそうする際の自然な様式である。それゆえつぎのようにわれわれは言う。
 太陽系の質量中心はある空間点であって、指示的な複合表現ではない。
 「太陽系の質量中心」は指示的な複合表現であって、ある空間点ではない。
 あるいはまた、
 グレイ(一九)の悲歌の一行目はある命題を述べている。
 「グレイの悲歌の一行目」は命題を述べてはいない。

 それゆえある任意の指示句を取り上げ、それをCで表わすことにして、このCと「C」との間にある関係を考えてみたい。そこでのこの両者の差異は、上記した二つの例で示されているような種類のものであるが。
 まずはじめにいえることは、Cが現われている場合にはわれわれはまさに外延について語っているのであり、「C」が現われている場合には他ならぬ内包的意味について語っているということである。いまや内包的意味と外延との関係は、句を介しての単に言語的な関係ではない。すなわちそこには、内包的意味は外延を指示する、と言うことによって表現されるある論理的な関係が、必ず含まれていると考えられる(二十)。しかしわれわれが直面する困難は、内包的意味と外延との関連を保ちながら、しかもそれらが一つの同じものになってしまわないようにするという二つのことを、ともには達成できないとということであり、さらにまた、内包的意味が指示句による以外には捉えられないということである。このことは以下のように生ずる。
 一つの句Cは、内包的意味と外延との両方をもたねばならなかった。しかしもしわれわれが「Cの内包的意味」という言い方をするなら、それはその外延の内包的意味(あるとして)を表すことになる。「グレイの悲歌の一行目の内包的意味」は「「晩鐘が夕暮のときを知らせる」の内包的意味」と同じなのであって、「「グレイの悲歌の一行目」の内包的意味」とは同じではない。それゆえわれわれが欲している内包的意味をうるためには、「Cの内包的意味」という言い方ではなく、「「C」の内包的意味」という言い方をしなければならない。そしてそれはただ「C」というのと同じなのである。同様に「Cの外延」はわれわれが欲する外延を意味せず、それは何かつぎのようなあるものを、すなわちそれがそもそも何かを指示するとすれば、われわれが欲する外延によって指示されるところのものを指示するようなあるものを、意味することになる。たとえば「C」を「上記した例のうちの第二の例に現われる指示的な複合表現」であるとしてみよう。すると、
 C=「グレイの悲歌の一行目」、そして、Cの外延=晩鐘が夕暮のときを知らせる。しかしわれわれがその外延としようと意図していたものは、「グレイの悲歌の一行目」であった。それゆえ、われわれはわれわれが欲していたところのものをうるのに失敗してしまったのである。
 指示的な複合表現の内包的意味について語ることに関しての困難は、つぎのように述べてみることができるであろう。すなわちまず、われわれが指示的な複合表現をある命題に入れるや否や、その命題はその外延についての命題となるということである。そしてまた、もしわれわれが「Cの内包的意味」を主語とする命題をつくるなら、われわれの意図に反して、その主語は外延の内包的意味(もしあれば)となることである。このことから、内包的意味と外延とを区別する場合には、われわれは内包的意味というものをつぎのように扱っているにちがいないと言わざるを得なくなる。すなわち、内包的意味は外延をもち、複合的表現であり、そしてまたまさにこの内包的意味以外には、複合的表現と呼ぶことができしかも内包的意味と外延の両方をもっていると言うことができるようなものは存在しない、として取り扱っているのである。いま問題としている見解によれば、内包的意味のあるものは外延をもつ、と言うことは正当なことなのである。
 しかしこのことは、内包的意味を語ることにおけるわれわれの困難さを、ただ一層明白にするにすぎない。Cを複合的表現としてみよう。するとそのときわれわれは当然のこととして、Cはその複合的表現の内包的意味である、と言うからである。それにもかかわらずCが引用符なしで現われる場合はいつも、語られることがらはその内包的意味についてではなくその外延についてのみ真となり、それはちょうど、太陽系の質量中心はある空間点である、と言う場合と同様である。それゆえC自体について語るためには、すなわちその内包的意味について陳述をするためには、その主語はCではなく、Cを指示するようなあるものでなければならない。それゆえわれわれが内包的意味について語りたいときに用いる「C」は、いまや内包的意味ではなく、その内包的意味を指示するようなあるものでなければならない。しかもCは複合的表現の一構成要素(「Cの内包的意味」の場合がそうであるように)であってはならない。なぜなら、もしCが複合的表現の中に現われているなら、現われてくるのはその内包的意味ではなくその外延であるからである。しかも外延から内包的意味へ戻る道はないのである。なぜならあらゆる対象は各々無限個の異なる指示句によって指示されうるからである(二一)。
 それゆえ「C」とCとは、「C」がCを指示するというように、異なったものであると思われるであろう。しかしこれは説明になっていない。なぜなら「C」のCへの関係は、全く不明瞭なままだからである。またどこにわれわれは、Cを指示するとされる指示的複合表現「C」を見出したらよいのであろうか。さらにCがある命題に現われてくる場合には、(つぎの段落でみるように)外延だけが現われるのではない。しかしいま問題にしている見解によれば、Cはただ外延だけであって、内包的意味はまったく「C」の方に所属させられるのである。このことは解きほぐすことのできないもつれであり、また内包的意味と外延の区別全体が誤って考えられてきたことを証明しているように思われる。
 指示句が命題に現われている場合には、その内包的意味が関係してくるということは、、ウェイヴァリーの著者についての難問によって、形式的に証明される。「スコットは、ウェイヴァリーの著者であった」という命題は、「スコットはスコットであった」がもっていないような性質、すなわちジョージ四世がそれが真であるか否かを知りたいと思っていたという性質をもっている。このようにこの両者は同一の命題ではなく、それゆえもしわれわれがこの区別が立てられてくるような観点をととするなら、「ウェイヴァリーの著者」の内包的意味も、外延と同様に、無関係なものではあり得ないのである。しかしすでに見たように、この観点をとるかぎり、ただ外延のみが関係してくるものでありうると考えざるを得なくなる。よって問題となっている観点は、放棄されねばならないのである。

(その7)

 残るのは、われわれが考察してきたすべての難問が、この論文の冒頭の部分で説明された理論によって、どのように解決されるかを示すことである。
 私が主張する見解にしたがえば、指示句は本質的に文の部分であり、多くの単語と同様にそれ自体で独立してはいかなる意義ももたない。もし私が「スコットはあるひとりのひとであった」と言うなら、それは「xはあるひとりのひとであった」という形式の陳述であり、そしてそれは「スコット」をその主語にしている。しかしもし私が「ウェイヴァリーの著者はあるひとりのひとであった」と言うなら、それは「xはあるひとりのひとであった」という形式の陳述ではなく、またそれは、「ウェイヴァリーの著者」をその主語とはしていない。この論文の冒頭の部分でなされた言明を切りつめて言えば、「ウェイヴァリーの著者はあるひとりのひとであった」の代りに、つぎのものを置き換えることができる。すなわち「ただ一つのあるものがウェイヴァリーを書いた、そしてそのあるものはあるひとりのひとであった。」(これは先に述べられたことと、厳密には同じことが意味されているのではない。しかし理解するにはより容易である。)そしてまた一般的には、ウェイヴァリーの著者は性質φをもっていたと言いたいとき、われわれの言いたいことは、「ただ一つのあるものがウェイヴァリーを書いた、そしてそのあるものは性質φをもっていた」と同値なのである。
 外延についての説明はいまや以下のようになる。「ウェイヴァリーの著者」がその一部に現れているような命題のすべてが上のように説明される以上、「スコットはウェイヴァリーの著者であった」(すなわち「スコットはウェイヴァリーの著者と同一であった」)という命題は、「ただ一つのあるものがウェイヴァリーを書いた、そしてスコットはそのあるものと同一である」となる。あるいはいっさいの言い換えを含まない形式に戻してみるとつぎのようになる。すなわち「xはウェイヴァリーを書いたということ、およびもしyがウェイヴァリーを書いたならyはxと同一であることがyに関してつねに真であるということ、そしてさらにスコットはxと同一であるということは、xに関してつねに偽ではない。」(二三) それゆえもし「C」が指示句であるなら、そして命題「xはCと同一である」が上のように解釈されるかぎり、この命題を真とするような一つのあるものが存在する(しかし一つより多くは存在できない)、ということも起りうる。そのときわれわれは、このあるものxこそが句「C」の外延である、と言ってみることができる。このようにして、スコットは「ウェイヴァリーの著者」の外延なのである。引用符号のついた「C」は、決して内法的意味と呼ばれうるようなものではなく、単に句であるにすぎないであろう。句はそれ自体ではいかなる内包的意味をも持っていない、なぜならそれが現われてくる命題においても、その命題が言い換えなど含まない完全に展開されたかたちで表現されると、その命題はもはやその句を含んでいず、その句はすでに分解されてしまっているからである。
 ジョージ四世の好奇心についての難問は、いまやごく簡単にその解答が与えられることが分かる。「スコットはウェイヴァリーの著者であった」という命題は、上の段落でそれを簡略化されていない形式で書き上げてみたとおり、われわれが「スコット」を代入しようとすれば代入できるはずの「ウェイヴァリーの著者」なる構成部分を、もはやまったく含んでいない。このことは、いま問題となっている命題において「ウェイヴァリーの著者」が、第一次的な現われ方と私が呼ぶところの現われ方をしているかぎりでは、言葉のうえで「スコット」を「ウェイヴァリーの著者」に代入することから生じてくる諸推論の真理と対立することにはならない。指示句の第一次的な現われ方と第二次的な現われ方との違いは、以下のとおりである。

 われわれが「ジョージ四世はしかじか(So-and-so)であるかどうかを知りたいと思っていた」と言うとき、あるいは「しかじかのことは驚くべきことである」あるいは「しかじかのことは真である」などと言うとき、この「しかじか」は当然命題であろう。ところでいま「しかじか」が指示句を含むと仮定してみよう。われわれはこの指示句を従属命題である「しかじか」から除去することもできるし、あるいはまた「しかじか」がその単なる構成要素となっている命題全体の方から除去することもできる。どちらにするかによって異なる命題が結果としてでてくる。私はヨットの気難しい持主についてのつぎのような話を聞いたことがある。あるお客がそのヨットをはじめて見たとき、彼に向って「君のヨットは実際の大きさより大きいと思っていたよ」と意見を述べた。するとその持主は「いや、私のヨットは実際の大きさより大きくはない」と答えた。客が意味したことは「私が君のヨットについて考えていた大きさは、君のヨットの実際の大きさより大きい」ということであった。しかし彼から受けとられた意味は、「君のヨットの大きさは君のヨットの大きさより大きい、と考えていた」である。ジョージ四世とウェイヴァリーの方に戻ると、われわれが「ジョージ四世はスコットがウェイヴァリーの著者であるかどうか知りたいと思っていた」と言うとき、普通われわれは、「ジョージ四世は、ただひとりのひとがウェイヴァリーを書き、しかもスコットがそのひとであったのかどうかを知りたいと思っていた」ということを意味する。しかしまたわれわれは、「ただひとりのひとがウェイヴァリーを書いた、そしてジョージ・スコットがそのひとであったのかどうか知りたいと思っていた」ということを意味することもできる。後者において「ウェイヴァリーの著者」は第一次的な現れ方をしており、前者においてそれは二次的な現れ方をしているのである。後者は「ジョージ四世は、ウェイヴァリーを実際に書いた人間について、それがスコットであるかどうかを知りたいと思っていた」によっても表現できる。これは、たとえばジョージ四世がスコットを遠くから見て、「あれはスコットか」と尋ねたとした場合に、真となるであろう。指示句の第二次的な現われ方は、考察されている命題の単なる構成要素となっているにすぎない命題pにおいてその句が現われるような現われ方として、定義されうる。そこでその指示句への代入は、当の命題全体においてではなく、pの部分においてのみ効果が及ぶべきことになる。第一次的な現われ方と第二次的な現われ方との間にあるような曖昧さは言語において避け難いものである。しかしもしそれに対してわれわれが用心しているなら、それは何ら害をなすものではない。記号論理学ではもちろんそれは容易に避けられる。
 第一次的な現われ方と第二次的なそれとの区別はまた、現在のフランス王がはげ頭であるか、はげ頭ではないかという問題についても、さらにまた一般に、いかなる対象をも指示しない指示句の論理的な身分についても、その取扱いを可能にしてくれる。もし「C」が指示句、すなわちたとえば「性質Fをもつ項」であるような場合には、

 「Cは性質φをもつ」は「ただ一つの項が性質Fをもち、かつそれは性質φもつ」 を意味する(12)。
 もしいま性質Fがいかなる項にも属さないか、あるいは数個の項に属するなら、「Cは性質φをもつ」はφのすべての値に関して偽となる。それゆえ「現在のフランス王ははげ頭である」は、確かに偽である。そして「現在のフランス王ははげ頭ではない」は、もしこれが「いまフランス王であってしかもはげ頭ではないようなあるものが存在する」(二三)を意味するなら偽であるが、もしこれがく以こ尉「いまフラソス王でありしかもはげ頭であるようなあるものが存在する、ということは偽である」(二四)を意味するときには,真である。
 すなわち「フランス王は、はげ頭ではない」は、「フランス王」の現われ方が第一次的であれば偽であり、それが第二次的であれば真である。それゆえ「フランス王」が第一次的な現われ方をするような命題のすべては偽である。そのような命題を否定した命題は真であるが、それらにおいては「フランス王」は第二次的な現われ方をしているのである。このようにしてわれわれは、フランス王がかつらをかぶっているという結論をまぬがれるのである。

(その8)

 われわれはいまやまた、AとBとが異なっていない場合に、AとBとの間の差異というような対象が存在するということを、どのように否定するかについても理解することができる。
 もしAとBとが異なっているなら、「xはAとBとの差異である」が真となるようなただ一つのあるものxが存在する。もしAとBとが異なっていないのなら、そのようなxは存在しない。それゆえ先に説明された外延の意味にしたがえば、「AとBとの差異」は、AとBとが異なるときには外延をもつが、それ以外のときには外延をもたない。このちがいは一般に、真なる命題と偽なる命題とのちがいに適用される。もし「aRb」が「aはbとの間に関係Rをもっている」を表わすなら、aRbが真のとき、aとbとの間の関係Rであるようなものが存在する。aRbが偽のときには、そのようなものは存在しない。それゆえわれわれは、任意の命題から指示句をつくることができる。そしてその句は、もしその命題が真ならあるものを指示し、もしその命題が偽ならいかなるものも指示しない。たとえば、地球が太陽のまわりを回転するということは真であり(少なくともわれわれはそう仮定するが)、太陽が地球のまわりを回転するということは偽である。よってここから、「太陽をまわる地球の回転」はあるものを指示し、一方「地球をまわる太陽の回転」はいかなるものも指示しない(13)
 「円い四角」「2を除いた偶数の素数」「アポロ」「ハムレット」などなどのような非−実体的な存在者の全領域は、いまや満足できる仕方で取扱われうる。これらはすべて、いかなるものをも指示しない指示句である。アポロについての命題は、古典の辞典が教えてくれるアポロの意味、すなわち「太陽神」を代入することによって得られるところのことを意味する。アポロが現われているすべての命題は、指示句に関しての上述した規則によって当然解釈されねばならない。もし「アポロ」が第一次的な現われ方をするなら、そうした現われ方を含む命題は偽である。もしその現われ方が第二次的であるなら、その命題は真であることもできる。また同様に「円い四角は円い」は、「円くしかも四角であるようなただ一つのあるものxが存在し、しかもそのあるものは円い」を意味するのであり、それはマイノングが主張するように真なる命題ではなく、偽なる命題である。「最も完全な存在者は、すべての完全性をもつ。存在することは完全性である。それゆえ最も完全な存在者は存在する」は、つぎのようになる。
 「最も完全であるようなただ一つのあるものxが存在する。そのあるものはすべての完全性をもっている。存在することは完全性である。それゆえそのあるものは存在する。」証明としてはこれは、「最も完全であるようなただ一つのあるものxが存在する」という前提の証明を欠いており、失敗している。(14)
 マッコール氏(マインド誌、n.s.,n.54、および n.55、p.401)は、個体には実在的なものと非実在的なものとの二種類があると考える。それゆえ彼は、零−クラスを、すべての非実在的な個体からなるクラスとして定義する。このことは、「現在のフランス王」のような実在的な個体を指示しない句も、それにもかかわらず、非実在的な個体ではあるがとにかくある個体を指示する、ということを認めることになる。これは本質的にマイノングの理論であり、それが矛盾律に抵触することから、それを拒否すべき理由のあることはすでに見たとおりである。われわれの指示理論によれば、いかなる非実在的個体も存在しない、と考えることができる。それゆえ零−クラスは、いかなる成員をも含まないクラスであって、その成員としてすべての非実在的な個体を含むようなクラスではないのである。
 指示句によって進められる定義の解釈に関して、われわれの理論の効果を観察することは重要である。多くの数学的な定義はこの種のものである。たとえば「m−n は、nに加えられるとmとなる数を意味する。」このようにm−nは、ある指示句と同じものを意味するものとして定義される。しかし指示句がそれだけで孤立してはいかなる意味をももたないことは、認めたところである。したがってその定義は実際にはつぎのようであるべきである。すなわち「m−nを含む任意の命題は、「m−n」のところに「nに加えられるとmとなる数」を代入することから生じてくる命題を意味する。」 そして代入の結果として生じてくる命題は、その言語表現が指示句を含んでいる命題を解釈するためにすでに与えられた諸規則にしたがって解釈される。mとnが、nに加えられるとmとなるただ一つの数xが存在する、というようなものである場合には、m−nを含むいかなる命題においても、その命題の真偽を変えずに、m−nに代入されるような数xが存在する。しかしその他の場合には、「m−n」が第一次的な現われ方をしているような命題のすべては偽である。
 同一性の有用さは、上述してきた理論によって説明される。論理学の書物以外では、誰も決して「xはxである」と言ってみようなどとは思わない。しかし「スコットはウェイヴァリーの著者であった」とか「汝は人間なり」とかいうような形式では、同一性の言明はしばしばなされる。このような命題の意味は、同一性の概念なしには述べることはできない。しかしもとより単純に、スコットは、もう一つの項、ウェイヴァリーの著者と同一である、あるいは汝は、もう一つの項、人間と同一である、という陳述で述べられるのではない。「スコットはウェイヴァリーの著者である」の最も短い陳述でもつぎのようになると思われる。すなわち「スコットはウェイヴァリーを書いた、しかも、もしyがウェイヴァリーを書いたなら、yはスコットと同一であるということは、yに関してつねに真である。」(二五) 同一性が「スコットはウェイヴァリーの著者である」へと入っていくのは、このような仕方においてである。そして同一性を承認する価値があるのも、このような使用によるのである。
 指示についての上述してきた理論の一つの興味深い結果は、つぎのような事柄である。すなわちわれわれがその見知りをもつのではなく、指示句によるその定義のみをもつにすぎない何ものかが存在するとき、このものがその指示句によって導入されている命題は、実際にはこのものを構成要素としては含まず、代りにその指示句を形成する数個の単語によって表現される構成要素を含んでいる、という事柄である。それゆえ、われわれが理解できるあらゆる命題においては(すなわちわれわれがその真偽を判断しうる命題においてばかりではなく、われわれがそれについて考えることができるすべての命題においては)、すべての構成要素は実際にわれわれがそれらの見知りをもっているようなものなのである。いまや物体のようなもの(物理学に登場する物体という意味での)や、他のひとびとの心は、指示句によってのみわれわれに知られる。すなわちわれわれは、それらの見知りをもっているのではなく、かくかくの性質をもつものとしてそれらを知るのである。このためわれわれは、かくかくの物質的粒子について、あるいはしかじかの心について確かに成立すると思われる命題関数C(x)を形成しうるにもかかわらず、われわれの知っているこれらのものが真であるにちがいないことを肯定する命題を、見知ることはないのである。というのもわれわれは、いま問題となっているようなもので、実体的な存在を感知することができないからである。われわれが知るのは、「しかじかなるものは、かくかくの諸性質をもった心をもっている」ということである。しかしながら、Aがいま問題となっている心であるとして、「Aはかくかくの諸性質をもっている」ということを、われわれは知ることはない。このような場合にはわれわれは、もの自体を見知ることなしに、またしたがってそのもの自体がその構成要素となっているような何らかの単一の命題を知ることなしに、そのものの諸性質を知るのである。
 私が主張してきた見解のその他の多くの帰結については、何も言おうとは思わない。ただ私が読者にお願いしたいことは、指示という主題についての自分自身の理論をつくり出すことを試みるまでは、この見解に反対しようと――この見解の外見上の過度の複雑さのゆえに、そうする誘惑を感ずるかもしれないが――しないでほしい、ということである。そのような試みは、本当の理論がどのようなものであれ、それが予め期待していたような単純さをもち得ないものであることを確認させることになるであろうと思われる。(了)


原注
(1)私はこの主題を Principles of Mathematics, 1903, chap. V 及び §476 において議論した。そこで主張される理論はフレーゲのものと同じである。従ってそれは、本文の以下につづくところにおいて主張されることになる理論とは全く異なっている。
(2)より正確には、命題関数。
(3)これらのうちの第二のものは、もしそれが「C(x)は偽である」はつねに真である、ということは真ではない」を意味するととれば、第一のものによって定義できる。
(4)この複雑な句の代りに、「C(x)はつねに偽であるのではない」あるいは「C(x)はときどき真である」という句を、それらが複雑な句と同じことを意味すると定義されているとして、ときどき使用することになろう。
(5)ブラッドレイ氏の Logic, Book I, chap. II において巧みに議論されているように。
(6)「C(あるひとりのひと)(C(a man))は心理(学)的にはただひとりであることを示唆しており、「C(あるひとびと)」(C(some men))はひとり以上であることを示唆している。しかし予備的な概略を述べる場合には、これらの示唆を無視することも許されよう。
(7)Untersuchungen zur Gegenstandstheorie und Psychologie(Leipzig, 1904) の(マイノング、アムセダーおよびマリー各氏による)最初の三つの論文を見よ。
(8)彼の 'Uber Sinn und Bedeutung', Zeitshrift fur Phil. und Phil. Kritik, v.100 を見よ。
(9)フレーゲは内包的意味という二つの案を、複合的な指示句においてだけでなく、いたるところで区別する。それゆえ指示的複合表現の内包的意味には、その構成要素の外延ではなく、それらの内包的意味こそがかかわってくる。「モンブランは千メートル以上の高さである。」という命題において、彼によれば、その実際の山ではなく「モンブラン」の内包的意味こそが、この命題の内包的意味の構成要素なのである。
(10)この理論においては、指示句は内包的意味を表現する、というような言い方をすることになろう。また、句と内包的意味の両者とも、それらは外延を指示する、というような言い方をすることになろう。私が主張する他の理論においては、いかなる内包的意味もなく、ただときどき外延が存在する。
(11)私はこれらを同義語として使用する。
(12)これは簡略化された解釈であって、より厳格なものではない。
(13)このようなものが導き出されてくるもとになる命題は、これらのものと同一でもなければ、これらのものは存在する、という命題とも同一ではない。
(14)最も完全なる存在者からなるクラスのすべての成員は存在するということは、論証によって、妥当的に証明されうる。またこのクラスが、一個以上の成員をもちえないということも、形式的に証明されうる。しかし、完全であることの定義をすべての肯定的な述語の所有であるとすると、そのクラスが一個の成員すらももっていないということも、ほとんど同様に形式的に証明されうる。

訳注(←↓ 論理記号は、環境によっては文字化けが予想されます。そのような方は、画像版参照。)
(一) この理論の内容は、訳書としてはこの論文の他にも、『数理哲学序説』(平野智治訳、岩波文庫)第15,16章に見いだせる。
(二) 今日の記号論理学の通常の記号法では、(∀x)C(x)と表される。なお、以下の訳注で特に断りなく記号が記されている場合、本文の該当箇所を同様の記号法で記号化したものである。
(三) (∃x)C(x)
(四) (∀x)¬C(x) ただし、¬は否定記号
(五) ¬(∀x)¬C(x) またこれは原注(4)に述べられているように、(∃x)C(x)と表せる。
(六) ¬(∀x)¬(P(x)∧Q(x))、あるいは、(∃x)¬(P(x)∧Q(x)) ただしP(x)は、「私はxにあった」を、Q(x)は「xは人間である」を、<は「そして」を表す。
(七) ¬(∀x)¬(C(x)∧Q(x))、あるいは、(∃x)(C(x)∧Q(x)) Q(x)は訳注(六)と同じ。
(八) (∀x)((Q(x)⊃R(x)) ただし、R(x)は、「xは死ぬ」を、⊃は「ならば」を表す。Q(x)は訳注(六)と同じ。
(九) (∀x)((Q(x)⊃C(x)) ただし、Q(x)は、訳注(六)と同じ。
(一〇) (∀x)((Q(x)⊃¬C(x)) ただし、Q(x)は訳注(六)と同じ。
(一一) ¬(∀x)¬(C(x)∧Q(x)) あるいは (∃x)(C(x)∧Q(x)) ただし、Q(x)は訳注(六)と同じ。
(一二) いわゆるラッセルの記述理論といわれる内容である。すなわちそこでは「そのしかじかのもの)(the so-and-so)のような句は確定記述と呼ばれ、「xはしかじか(so-and-so)である」をA(x)で表し、「その(the)」を('x)で表すと、それは差し当たり、('x)(A(x))として記号化される。しかしラッセルは、('x)は本質的に不必要であり、('x)(A(x))を含む命題、すなわちC('x)(A(x))が、Aなるもの存在と一意性を内包する存在命題として解釈あるいは定義できることを、本文に述べられているように主張するのである。
(一三) P(yc) ⊃ y=x ただし、P(yc)は「yはcを子としてもうけた」を表し、Cは「チャールズ二世」を表す。
(一四) P(xc)∧(∀y)(P(yc))⊃ y=x ただし、Pは訳注(一三)と同じ。
(一五) ¬(∀x)¬(P(xc)∧Q(x)∧(∀y)P(yc) ⊃ y=x あるいは(∃x)(P(xc)∧Q(x)∧(∀y)P(yc) ⊃ y=x ただし、Q(x)は「xは処刑された」を表す。Pは訳注(一三)と同じ。
(一六) ¬(∀x)¬((∀y)P(yc) ⊃ y=x)) または(∃x)(∀y)P(yc) ⊃ y=x ただし、Pは訳注(一三)と同じ。
(一七) meaning および denotation は、フレーゲの Sinn および Bedeutung に対応する。ところで、meaning および denotation の訳語としては、土屋俊氏にご教授いただいたとおり、「意味」と「指示」とするのが、最も適当であると思う。ただしかしそれは、各々の語の内容がしっかり把握されている限りのことであり、通常は、「意味」という語も「指示」という語も多義的に使われ、曖昧であることから、いまの場合には、必ずしも適当とは思われなかった。そこで、この翻訳ではあくまでもこれら二つの語の対立をはっきりさせるため、「内包的意味」と「外延」という訳語を与えてみた。たしかに今日では、内包と外延というと、各々 intention と extention の訳語とされる傾向が強くなってきている。したがって、多少古い常識に従って、denotation を外延と訳し、それとの対比から内包を考え、さらにその上で、meaning を内包的意味と訳すことには多少問題があるかもしれない。しかしここでの訳語は、繰り返すことになるが、あくまでも二つの語の対立を明示するために用いたものであることをお断りしておく。なお、土屋氏には他の部分についてもいろいろと貴重なご意見をいただきた。適当な場所がないので、ここであわせてお礼申し上げる。
(一八 「前記引用書」は、原注(1)の図書。実際、原注(1)にも述べられているように、1905年のこの論文では、フレーゲ批判が全面に出てきている。
(一九) Gray, Thomas (1716-1771).イギリスの詩人。
(二〇) 単に という関係ではなく、 という関係
(二一) 外延から内包的意味へは、一対多となるゆえ。
(二二) ¬(∀x)¬(P(xw)∧Q(∀y)(P(yw) ⊃y=x∧x=s) ただし、P(xw)は、「xはwを書いた」を表し、w、sは各々「ウェイヴァリー」(書名)、「スコット」を表す。
(二三) (∃x)(P(x)∧¬Q(x)) ただし、P(x)は、「xはフランス王である」を、Q(x)は「xははげ頭である」を表す。
(二三) (∃x)(P(x)∧Q(x)) ただし、Qは、訳注(二三)と同じ
(二四) ¬(∃x)(P(x)∧¬Q(x)) ただし、P、Qは訳注(二三)と同じ。
(二五) P(sw)∧(∀y)(P(yw) ⊃y=s) ただし、P、w、sの各々は訳注(二二)と同じ。