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モーリーン・グリーン「(性と社会)誓いなき結婚-リンゼーとラッセルの主張」

* 出典:『週刊 MAN & WOMAN: 人間百科「性と愛」編)n.5(日本メールオーダ社(1976年3月26日号) pp.107-110

 正式な結婚をしないで実質的に結婚している若い男女がふえつつある。彼らはその同棲に試験結婚的意味あいをもたせているが,それをうまく遂行するには,どうすればよいか。
 南太平洋のサモア島の夫婦。彼らのあいだでは.試験結婚することが,こく当然とされている。右下は,彼らの生態の研究者,マーガレットミード
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 「結婚ですって? そうねえ,今するつもないけど,多分するでしょう。」「とても愛しあっているんだけど,結婚となるとわからない。2,3年後もまだいっしょにいるようだと,おそらく結婚することになるでしょう。」「わたしたち子供が好きだから,いつかは結婚すると思います。」
 同棲中の若い男女に,将来結婚するつもりかどうかをきくと,おおむねこのような答えがかえってくる。彼らは,現在身をまかせている相手のことを,ほんとうに知るまで,「法的に正式にむすばれる」必要はないと考えているのである。将来の見通しがつくまで,あるいは,二人でくらすことに慣れ,所帯をもちたいとおもうようになるまで,結婚を見合わすつもりでいる。つまり,同棲を試験的な結婚と考えているわけである。そして,そうした同棲をおこなう若い男女が,最近とみにふえつつある。たしかに,そうした同棲は,きわめて合理的で,かついかにも現代的な感じがする。しかし,はたしてそうなのか。また,思わくどうりうまくいくのだろうか。

 正式でない結婚について

 まず,試験的に結婚することをふくめ,正式でない結婚というのは,正式な結婚とおなじくらい長い歴史をもっており,また,未開社会においては,試験結婚がごくあたりまえのことであることを明記しておく必要があろう。
 19世紀まで,西ヨーロッパの大多数の人にとって,法的な結婚は,遺言書を作ることなどと同様,有産階級だけがおこなうぜいたくであった。そして,キリスト教がひろまる以前のイギリスでは,人びとは「結婚を徹底的に軽蔑し,正当な妻をもつことを徹底的にこばんだ。」と聖ボニフェイスをなげかせたものである。有産階級をふくめ,二人が,最初から誓いあって正式に結婚するなどということは,宗教改革の開始にいたるまではごく少数であったわけだ。スコットランド地方では,定期市に娘を陳列し,そのなかから一人をえらんで「仮祝言をちかわせる」ことが,ごくふつうの習慣であった。田舎からやってきた若者が, 娘をつれかえって,いっしょに生活するのに適格かどうかを1年間ためしたのである。適格となれば法的な結婚のかたちがとられたし,適格でなければ,娘はつぎの年の市にもどされた。まるで召使いでもやとうような結婚式であった。
 正式な結婚が多数の人にとって当然のこととされるのは,19世紀も後半のことである。そして,キリスト教や有産階級の手によって,正式な結婚をした男女にのみセックスがゆるされ,結婚前の純潔が重んじられるようになったわけである。
 いっぽう,試験的に結婚するというのは,現在なお世界各地の未開社会でおこなわれている。
 アメリカの人類学者マーガレット・ミード(Margaret Mead、1901年-1978年11月15日)は,南太平洋のサモア島における結婚形態を報告している。それによれば,若者たちは,家族の意にかなった相手をえらび,妊娠するまで性的関係をつづけるが,これは,結婚するのに必要な準備行動としてみとめられている。家族の意にかなわぬ相手への欲望は,ヤシの木陰での短い情事で処理するのである。
 また,エスキモーのある種族では,妻子や両親をやしないうるということを,狩猟などの技術によって証明してみせるまで,男性は結婚をゆるされない。マダガスカル島でも,結婚にさきだって,おたがいによく知りあうため,一定期間性交の自由がみとめられている。南アメリカのインディオにおいても,結婚は返品可能な取引きのようなもので,こどもが生まれるまで,婚姻関係に拘束力は生じない。こどもが生まれなければ,わかれてもよいのである。
 彼らの社会においては,種族の存続がもっとも重要なことであり,したがって,生殖と食物獲得の能力を試験するのは当然のことなのである。
 ところで,こうした過去におこなわれた試験結婚や未開社会におけるそれは,はたして今日のわたしたちにとってなんらかの意義をもっているだろうか。残念ながら,あまり重要な意義をもっているとはいいがたい。なぜなら,今日では,結婚はたんに労働や生活に従属したものでも,種族の繁栄のためにおこなうものでもないからだ。それは,今日では,男性と女性がともに,肉体的・情緒的満足を獲得し,安定した親子関係を発展させていこうとするものにかわってきた。幸福な結婚は,充実した人生をおくろうとする人の最大の目的となってきているのである。
 こうした状況のなかで,はたして試験的に結婚することはいかなる意義をもちうるのか。また,理にかなったものとするにはどのようにすればよいか。

 リンゼーとラッセルの主張

バートランドラッセル。彼は,第二次大戦中,試験結婚の意義を強調してセンセーションをひきおこした。右下は,その先駆者,ベン・リンゼー
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 20世紀にはいってから,試験的に結婚することの意義を,最初に主張したのは,アメリカのデンバーで少年裁判所の判事をしていた,ベン・リンゼーである。彼がそれを主張したのは,第一次大戦後1920年代のやや解放的な風潮のなかであった。当時はさほどの影響力をもたなかったが,それから20年後に,哲学者のバートランドラッセルがリンゼーの主張を復活したときには,かなりの反響をよんだものである(松下注:この論文の著者は,1940年に起こった「バートランド・ラッセル事件」を念頭において書いていると思われるが、ラッセルが trial marriage の主張をしたのは Marriage and Morals, 1929 の中であるので、第2次世界大戦中にラッセルが試験結婚の主張をしたという記述は不適切である。)。両者とも,当時の社会からはげしい非難をあびたが,非難されるような主張をしたわけではない。
 リンゼーは少年犯の裁判の経験から,少年犯には,両親が不仲であったり,離婚したケースが多いのに心を痛め,理想的な結婚の方向を模索した結果,試験結婚という結論をえたのである。もっとも彼は,それを「試験結婚」とはいわず,「友愛結婚」と名づけた。それは,従来の伝統的な結婚とはちがって,男女のむすびつきを恒久的なものとはせず,両者がともになんらかの価値を創造していくものであるとし,そうした結婚観に同意したうえで,結婚するというものである。つまり,どんなことがあっても離婚してはいけないという足伽(あしかせ)をとりのぞくことによって,逆に離婚しなくなる,そういった結婚である。ただし,伝統的な結婚観との妥協として,いっぽうで彼は「特別結婚」を提案している。それは「合法的な受胎調整,あるいはこどものいない夫婦のために,たがいの同意があれば,別居手当の支払いなしに離婚できる権利をもった法的結婚」である。
 バ一トランド・ラッセルは,このリンゼーの主張に全面的に同意し,現代人の結婚観が不適当であることを指摘し,合理的な社会ではこどもができたときに結婚をかんがえればいいと主張した。なぜなら性的関係が社会的に重要な意味をもってくるのは,ただこどものことがあるからだけだというわけである。ラッセルの時代には,婚前セックスに対する因習的な禁制があったために,若者が'向こう見ずな'性関係にはしることはないと考えたのである。「賢明な保守派の人間」とリンゼーを賞賛し,ラッセルは,「特別結婚」がとくに学生たちには有益だと考えた。パーティや乱痴気騒ぎで性的欲求を発散するより,「特別結婚」によって半恒久的な男女関係をもつほうがずっと勉強とセックスが両立しやすいと,考えたのである。
 リンゼーの論旨を徹底させ,適切な受胎調整をするならば,こどもをつくらない性的関係はすべて純粋に私事とみなすべきだというのがラッセルの主張である。もし一組の男女が,こどもをつくらない同棲をしようとするならば,それはだれの権利でもなく,彼ら自身の権利でなければならない。すべての人は,結婚前にセックスを経験する必要がある。なるべくならすでに経験した人とするのがのぞましい。だれも自分が性的に適合できるかどうか知らなくて結婚すべきではない,というわけだ。

 試験結婚と婚前交渉

正式に結婚している二人,公然と表札をならべて同棲中の二人,こっそり同棲している「独身」の二人・・・そのいずれをえらぼうとも自由だが。
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 それでは,現代の若い男女が,法的な結婚をはじめるまえに,じっさいにはどのような「試験」期間を自分たちに課せばいいのだろうか。マイケル・スコフィールドの調査によって,18歳までに男性の34%,女性の16%がセックスを経験していることがわかっている。しかし,若者のセックス体験の特質はなんだろう。セックス体験によって若者は,調和のとれた結婚相手をえらぶことができるようになるだろうか。
 教会にしろ社会学者にしろ,婚前交渉にたいして,なんら統一的・積極的な展望をもってはいない。教会の,リベラルで権威ある報告書『性と道徳』においてすら,イギリス教会評議会は「人間は感情の用意がととのわないうちに,肉体的には性交の用意がととのっている。そして,女性はその経験を男性とはすこしちがった観点からみているといったやっかいな性の事実」をみとめてはいるが「ほとんどのばあい,おたがいに満足できる性の関係は,当事者間の人格的な絆によっているのであり,その本質的要素の一つは,他者へのとり消すことのできないかかわりである,というのが事実である。性交が配偶者のいっぽうを'ためす'ことであり,夫に適したものか,妻に適したものかを決めるものだとみなされるならば,この本質的な条件が欠けていることになる。こうした性交は,当然満足いくものだとはいえないだろうし,結婚の準備とはなるはずがない」という結論をくだしている。
 いっぽう,社会学者の側からだされた見解は,両極にわかれている。試験結婚を推奨する,いっぽうの旗頭である,バージェスとヴォーリンは,その論拠として,彼らがおこなった調査結果をあげている。彼らは,81人の男性と74人の女性のグループに結婚前の性体験が彼らの関係を強くしたか,弱くしたかを質問した。その結果は,男性の92.6%が,「強める結果になった」と回答しており,女性の90.6%がおなじ回答をしたというわけである。しかし,試験的な結婚に否定的なレスター・カーケンドールが688人のアメリカの男子の大学生を対象に,商売女から,落着いた恋愛関係にいたる(までの)さまざまの性的な経験が,彼らにおよぼす影響について調査した結果は,これとは対照的である。セックスの経験だけで自分たち の関係の絆が「強められた」と感じているのは,グループのうちでたった35%にすぎないことを報告しているのである。そして,カーケンドールは,「性交が男女の関係を強める結果になるか,それとも弱める結果になるかは,本質的にあるいは,おのずと2次的あるいは極小的な問題にすぎない。」と結論づけ,「自然なぺ一スで相方が関係をもちうる能力,おたがいの関係を明瞭に位置づけうる能力,どの程度自分たちの性格を二人がわきまえているかといったような要素こそが,重要な問題だ。」と結論づけているのである。
 これらの社会学者の主張の論拠は,いずれも,婚前交渉に関する調査結果である。そして,その主張が大幅にくいちがうものであるというのは,試験的に結婚する必要性,あるいはその是非が,セックスの問題だけでは論じきれないことをしめしているように思われる。

 同棲と結婚

の画像  おそらく,試験結婚の是非は,もうすこし時間をかける必要があるのかもしれない。とりあえず,若い恋人たちが,一緒に生活していくのに適しているかどうかを知るには,一定期間受胎調節をおこないながら同棲してみること,というほかないのかもしれない。しかし,だれにもこの提案の実行を保証してやることはできないのである。中年の多くの人は,この性の理想が,すでに学生たちに受けいれられていると考えているようである。イギリスのある学生は,残念そうに告白している。「恋人たちが家庭をもっているのはごくまれです。たいてい彼らは,寮や独身者の下宿で同棲しています。彼らにできることは,せいぜい2,3日間いっしょに,おたがいの部屋に身をかくすことぐらいでしょう。」。こうした断続 的な同棲生活を2年ほどつづけたあとで結婚するというのが,全般的な傾向である。その学生はつづいてつぎのようにかたっている。「気持のうえでは,同棲も結婚もちがいはありません。同棲の唯一の利点は,かんたんに荷物をまとめてでていくことができるくらいのものでしょう。」
 6年間同棲していた,職業をもった男女もこれに同意している。「じっさい同棲は結婚しているのとほとんどかわりがありません。おたがいにかかわりあいをもっているといった程度です。わたしたちは,さまざまな離婚の原因となるであろうことからのがれてきました。」。これは男女問のあらゆる出合いのこみいった性質を要約している。ある程度のかかわりあいがなければ,たがいにわかりあうことも,楽しむこともほとんどなくなってしまう。しかしかかわりあいの程度が大きくなればなるほど,過ちから身をひくこともむずかしくなってくるのである。
 現在,理想的なパターンといえば,若い恋人たちが,大学在学中に知りあい,ロンドンの小さなアパートにうつりすんで一緒に生活をはじめるという形である。1年ほど身をおちつけたあとで,こどものほしくなった若い女性がこう宣言する。「もし来年のいまごろまでこうして一緒に生活していたければ,私と結婚したほうがよくなくて」。そして男性がこれに同意する・・・。(モーリーン・グリーン)