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バートランド・ラッセル「知識と知恵」

全訳・対訳版
(From: Knowledge and Wisdom, 1954)

 現代知識ではどの時代よりも優れているが、知恵はその逆だと多くの人々が考えている。
 知恵に役立つ第一要素は、均衡感覚(プロポーション)、つまり、どんな問題でもそれにとって重要な要素はすべて見落さない能力と、それぞれの要素に当然かけるべき比重(ウエイト)を忘れない能力とである。
 知恵と結びつかない知識の探求や学問は有害となる。専門家に必ず総合的洞察力としての知恵があるとは限らない。「人生の目的は何か」の自覚がない総合性は知恵とは言えない。この総合性は理性面にも感情面にも必要となる。広い知識の持主で狭い感情の人は世間にザラにいるが、そういう人を知恵の欠けた人と思う。知恵は公的にも、私的にも必要である。
 '知恵の本質'は、「ここ」とか「いま」とかいう具体的な自己体験に囚われず、縛られず、物事をなるべく客観的に観る心情にある。人間はとかく自分の感覚反応に引きまわされ、それにとらわれやすい。感覚反応は肉体に密着しているから、個人差が生れやすい。
 完全な公平さで世界を観ることは誰にも出来ないし、それでは生き続けられないが、少しずつ公平さに接近することはできる。空間的時間的に物事を少し突き離して考えると、つりあいのとれた比重で物事に対応できるから、公平無私に近づける。この意味で、知恵を教えるのは教育の目的の一つだと思う。

ラッセルの言葉366
 '悪を憎むこと'自体は悪にこだわり、囚われている証拠である。悪人や犯人を憎み強制しても、再発防止の保障にならない。暴力行使は連鎖反応を呼ぶ。私は泣き寝入りや無抵抗をすすめているわけではない。悪が広がるのを阻止するには、憎む代りに害悪の生れる背景を最大限に理解し、強制力を最小限度に行使するのが有効なのだ。リンカーンは、私が知恵と呼ぶ心情から離れずに、南北戦争を指導した。(右上イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)
 知恵を教えるには、従来の道徳教育の慣習よりも、ずっと知的でなければならない。憎悪と偏狭とは意図に反して、より多く悲惨を招く。それは知識を与える過程で付随的に示しうる。
 知識と道徳とを分離し過ぎてはならない。あらゆる人間活動の中で知恵を適当に位置づけ、広く、知識を授ける中で補いたい。優れた知識人・技術家は、国民、党派人であるよりも、良き「世界」市民でなければならない。知識・技術が増大しても、人生目的の自覚や総合的洞察力としての知恵なしに、学術的成果を限定して適用すれば、そこに悪を受け入れる余地も増大してゆく。
 知識と知恵は車の両輪のごとく進まねばならない。万人が世界市民の心で生きねば、学問の発達が逆に殺人鬼を生むからである。