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谷川徹三「『ラッセル思想辞典』の発刊によせて」
『ラッセル思想辞典』(早稲田大学出版部、1985年5月刊)pp.i-ii.

* 谷川徹三氏(1895~1989:哲学、美学専攻)は、京大哲学科卒。1928年に法政大学文学部教授。その後法政大学総長を歴任。ラッセル協会第2代会長。

 私は京都帝国大学文学部哲学科に在学中、西田幾多郎教授(1870-1945:日本を代表する哲学者。京大教授。京都学派の創始者)の哲学概論の講義でバートランド・ラッセルの思想を知った(松下注:因みに、谷川徹三氏は、1918年に京大哲学科入学)。先生は現代哲学の諸潮流の中でニュー・リアリズム(新実在論)を採り上げ、その代表者の一人にまだ若かったラッセルを採り上げたのである。その頃私は、ラッセルの『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy, 1912)を京都の丸善の書架で見つけて読んだ。今(=1985年)から七十年に近い昔である。しかしドイツの哲学に専ら牽かれていた私はそれだけに終った。私がラッセルに興味を抱いたのは戦後間もなく彼の『西欧哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)を読んでからである。彼はその中でフィヒテやシェリングをほとんど黙殺して私を驚かせただけでなく、その自由な発想や行文によってもしばしば私を驚かせた。他の場所でもしばしば語っているが、彼もケンブリッジ在学中にはカントやへーゲルに熱中した。しかしやがてそれを捨てた。私は今もカントを重んじている。しかし一高(注:三高ではない)の図書館で何かと読んだウィリアム・ジェームズの書の中に、へーゲルの蜘蛛の巣(cobweb)に引っかかるなとあった一言が妙に頭にこびりついて、その後彼の美学に取組んだ際にも中途で挫折した。
 哲学史に引続いてラッセルの書に親しむようになったのは、彼が平和の戦士として活躍するようになってからで、雑誌『世界』(岩波書店)の発意で彼と往復書簡をかわしたりもした。もちろん彼は世界のラッセルで、こちらはまだ青臭い書生である。しかし彼は私の意見に丁寧に答えてくれた。その後、彼は気が向けば小学生にも丁寧に答える人であることを知った。そのうち笠信太郎を会長としてつくられていた「日本バートランド・ラッセル協会」が、笠さんの没後、私を会長としたため、毎月一回の理事会にも出席するようになり、その理事の一人、日高一輝が度たび日英の間を往来し、時にはイギリスに長く滞在してラッセルとも親交を結ぶに至るや、彼はますます私に親しい先覚となった。

 他方「ラッセル=アインシュタイン宣言」の趣旨に従って、東と西との平和共存の絆の強化を目指したパグウォッシュ会議がカナダでつくられ、それに出席したことのある湯川秀樹(湯川博士は「ラッセル=アインシュタイン宣言」にも名を連ねている)、朝永振一郎ら、日本を代表する原子物理学者の首唱で、それの日本版ともいうべき「科学者京都会議」の発足した際、私は出席して、与えられた「科学時代のモラル」なる主題の報告をしたりもした。これは「ラッセル=アインシュタイン宣言」の趣旨に則った、しかし別の機会におけるアインシュタインの「全体の破壊を避けるという目標は、他のいかなる目標にも優位しなければならぬ」という言葉に「アインシュタインの原則」なる名を与えて、これを現代における戦争と平和の問題を考える基本理念であると共に、現代におけるモラルの問題を考える前提ともなるべきものとした。
 こういう諸関係によって、ラッセルは私にとって最も親しい存在となったので、その死に際して『タイムズ』が新聞一ページ全体を費してオビチュアリーを出した際にも、日本における反響として、彼を二十世紀におけるヴォルテールとして、今後ますます大きな歴史的存在となるであろうという私の言葉が引用された。
 私がこの辞典にこういう文を載せるのは、かかる因縁によるものである。牧野さんは前述「日本バートランド・ラッセル協会」の熱心な理事で、『中国の問題』(The Problem of China,1922)という、一九二〇年代に今日の中国を予言した観がある、ラッセルの書の訳者でもある。篤実な学者で、この労多くして困難な辞典の刊行は編者にその人を得たの観がある。私は今も折があるとラッセルをひもとき、その自由人としての発想や、数学論理学から、政治、社会の多面な領域に亘っての博大にして高遭な知識や智恵に驚嘆を新たにしている。この辞典が年少の人たちを、この世紀の巨人の遺した宝庫に導き入れるものとなることを切に念じている。  昭和六十年一月 谷川徹三