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岩松繁俊「シェーンマン( Ralph Schoenman)

* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』より



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 バートランド・ラッセルの九十七歳九ケ月の生涯は、一般的にいえば、じゅうぶんに長い一生であったといえようが、抑圧・暴虐・侵略のない明るい希望に輝く平和な人類社会を築くために解決しなければならない難問が山積している現代において、ラッセルにもっと生きていてほしかったと願うのはきわめて自然なことというべきであろう。流行のインフルエンザにたおれたといっても、ラッセルは死の二日前まで元気に執筆活動をつづけていたのをみると、まだラッセルは生きることができたはずだという思いにかられざるをえない。かけがえのないラッセルの生命を縮めたものが考えられるとすれば、それはラッセルの秘書役をつとめていたラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~)といっていいであろう。
 ラッセルとシェーンマンとの関係については、一九六五年、ラッセルがヴェトナムヘの残虐な侵略に狂奔するアメリカを「帝国主義」と規定しはじめたときから、とりざたされるようになった。すなわち、
「ラッセルは「中立主義の立場」をとるのであるから、アメリカを帝国主義と非難するはずはない。ラッセルがアメリカを「帝国主義」と規定しはじめたのは、'その論文'をラッセル自身が書いていないからである。ラッセルの署名のある論文を執筆しているのはシェーンマンである。ラッセルは「老齢」ゆえにもはや判断力を失い、シェーンマンにあやつられるロボットになってしまったのである。」
 このようなラッセルを侮辱した'流言'がしだいに広まっていき、それはラッセル自身の耳にも入った。ラッセルはこの種の流言を真っ向うから粉砕すべく、その『自叙伝』第三巻で明確に事実を提示した。
「わたしの名前を冠したものは常にわたし自身が書いているものなのである。」「手紙にしてももっと公式の文書にしても、わたしが自分で論じたり、読んだり、承認しなかったものには全然署名をしていない。」
 したがって一九六五年以降のラッセルのアメリカ帝国主義批判は、ラッセル自身の思想と活動そのものにほかならなかった。
ラッセル、エディス、シェーンマンの画像
 ラッセルとシェーンマンとの真実の関係はこれとは異なったものである。
 シェーンマンは一九六〇年七月末ごろから一九六九年七月まで、九年間に亘ってラッセルの若い友人あるいは秘書として彼の仕事を手助けしてきた。ラッセルにとってシェーンマンがどういう存在であり、どういう活動をしてきたかについて、ラッセルは『自叙伝』第三巻第三章および第四章にのべている。しかしここでは、公刊されるという事情を配慮して、「調子をやわらげた」表現を用いた。ラッセルのシェーンマンにたいする率直な見解・感想は、シェーンマンヘの絶交状を書いた一九六九年七月十九日のほぼ四カ月後、すなわちラッセルの死のほぼ二ケ月前に口述し校閲した文書「メモランダム」にのべられている。
 この「メモランダム」にのべられていることは、ラッセルのもうひとりの秘書であったクリストファ・ファーレーによって「正しく、またそれでじゅうぶん説明しつくされている」と裏付けられたものである。(上写真出典:Bertrand Russell; The Ghost of Madness, 1921-1970, by Ray Monk. Jonathan Cape, 1920.)
 シェーンマンは機敏なエネルギーで積極的に行動したが、自信過剰、不寛容、無作法、洞察力の不足、誇張、しつこさ、不正直、はなやかな自已顕示欲のため、ラッセルの社会的名声とラッセル平和財団の信用と財政的基盤をいちじるしく傷つけた。のみならず、ラッセルは老いぼれてしまって、その署名した声明や論文はじつはすべてシェーンマンが書いたものだという虚偽の宣伝をしてまわったのは、ほかならぬシェーンマン自身であったことがあとになってわかった。
 百歳になんなんとするラッセルを苦しめ、ついには愚弄して揮らなかったシェーンマンにたいして、ラッセルがどのように感じつづけたか、その苦衷のほどは、冷静かつ客観的にのべられた「メモランダム」を通して、十分察することができる。ラッセルはもっと早くシェーンマンと絶交すべきであったと自己批判しているが、シェーンマンの裏面工作を証拠づける事実を周囲がもっと早く知らせてくれなかったことについて残念に思う気持を率直にのべているのを見ると、裏切ったものに対してラッセルが抱いた'無念の気持'の大きさを知ることができる。
 この不幸な人間関係がラッセルの健康を弱め、それが突然の逝去の最大の原因となったといえるのではなかろうか。(岩松)