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バートランド・ラッセル 宗教と科学(松下彰良 訳)- Religion and Science, 1935, by Bertrand Russell

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第9章 科学と倫理 n.8 - 倫理的な文とは?

 ある人が「これはそれ自体で善である(善い)」という時,彼(その人)には「これは正方形(square 四角)である」とか「これは甘い」とかいうのとまったく同じ程度の陳述(発言)をしているように思われる(かもしれない)。私はそれは誤りだと信じている。実際に意味されているのは,「私は全ての人がこれを欲求することを望む,あるいは,むしろ「願わくば,全ての人がこれを欲求せんことを!(欲求せればよいのに!)」」(仮定法で用いられる文語表現)ということである,と私は考える。もし,彼が言っていることを言明(statement 陳述)として解釈されるなら,それは単なる彼自身の個人的願望の断言(an affirmation)にすぎないし,もし,一方,それが(個人的発言ではなく)一般的に(一般的な一文)として解釈されるなら,それは何ものも述べておらず(主張しておらず),単に何事かを欲求しているにすぎない(願望表現をしているだけ)。願望は -ひとつの出来事として- 個人的なものであるが,それ(願望)が欲求するところのものは普遍的である(訳注:たとえば,「全人類の幸福」「戦争廃止」)。倫理に非常に多くの混乱を(これまで)引き起こしてきたのは,このような, 個別的なもの普遍的なものとの奇妙な連結(interlocking 連動)である。

 この問題は,多分,倫理的な文(注:何かが善いとか悪いとか主張している文)言明(陳述)をする文(statement)とを対比することによって,より明らかになるだろう。もし,私が「全ての中国人は仏教徒である」と言うならそれは中国人のキリスト教徒やマホメット教徒の提示によって(by the production of)反駁されるだろう。もし,「私は全ての中国人が仏教徒だと信ずる」と言うなら,中国人にあるいかなる証拠によっても私は反駁されず,ただ,私が言っていることを私は信じていない証拠(の提示)によってのみ反駁される。なぜなら,私が主張しているのは,(述べていることの真偽ではなく)ただ,私の心の状態(注:信じているという状態)だけについてだからである(訳注:信じている内容が間違っていようが、その間違っていることを信じていることがわかればこの一文は正しいということになる)。もし,今,ある哲学者が「美は善である」と言うなら,彼が意味していることは,「全ての人が美しいものを愛したらよいのに」(これは「全ての中国人は仏教徒である」に対応する)ということか,あるいは,「私は全ての中国人が美しいものを愛することを望む」(これは「私は全ての中国人が仏教徒であると信ずる」に対応する)ということであると,私は解釈してよいだろう。これら2つの内,前者は何らかの(個人的な)断言(assertion 主張)をしているのではなく,願望を表明している,即ち,それ(その文/表現)は何ものも断言していないので,それ(その文)を肯定したり否定したりする証拠が存在することは,あるいは,それが真理か誤謬かの証拠をもつことは,論理的に不可能である。2番めの(後者の)文は,単に願望を表しているだけではなく(instead of being merely optative),言明(陳述)をしている。だが,それは哲学者の心の状態に関しての言明(陳述)であり,彼が自分が持っていると言っている願望を(実際は)彼は持っていないという(ことを示す)証拠によってのみ反駁されうるものである。この2番めの(後者の)文は倫理学には属さず,心理学あるいは伝記に属している。倫理学に属している一番目(前者の)文は,あるものに対する願望を現わしているが,何ものも主張していない。

 倫理学は -もし上述の分析が正しいなら- 真であれ偽であれ,言明(陳述)はまったく含んでおらず,ある一定の一般的な種類の,即ち,人類一般の欲求 - また,もし存在するとしたら,神々,天使,悪魔の欲求(など),と関わりを持つようなものから成り立っている。科学は欲求の原因やそれを実現する手段について論じることができるが,純粋な倫理上の文を含むことはできない。なぜなら,科学は真あるいは偽なるものに関りを持つものだからである。

Chapter 9: Science and Ethics, n.8


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When a man says "this is good in itself," he seems to be making a statement, just as much as if he said "this is square" or "this is sweet." I believe this to be a mistake. I think that what the man really means is ; "I wish everybody to desire this," or rather "Would that everybody desired this." If what he says is interpreted as a statement, it is merely an affirmation of his own personal wish ; if, on the other hand, it is interpreted in a general way, it states nothing, but merely desires something. The wish, as an occurrence, is personal, but what it desires is universal. It is, I think, this curious interlocking of the particular and the universal which has caused so much confusion in ethics.

The matter may perhaps become clearer by contrasting an ethical sentence with one which makes a statement. If I say "all Chinese are Buddhists," I can be refuted by the production of a Chinese Christian or Mohammedan. If I say "I believe that all Chinese are Buddhists," I cannot be refuted by any evidence from China, but only by evidence that I do not believe what I say ; for what I am asserting is only something about my own state of mind. If, now, a philosopher says "Beauty is good," I may interpret him as meaning either "Would that everybody loved the beautiful" (which corresponds to "all Chinese are Buddhists") or "I wish that everybody loved the beautiful" (which corresponds to "I believe that all Chinese are Buddhists"). The first of these makes no assertion, but expresses a wish ; since it affirms nothing, it is logically impossible that there should be evidence for or against it, or for it to possess either truth or falsehood. The second sentence, instead of being merely optative, does make a statement, but it is one about the philosopher's state of mind, and it could only be refuted by evidence that he does not have the wish that he says he has. This second sentence does not belong to ethics, but to psychology or biography. The first sentence, which does belong to ethics, expresses a desire for something, but asserts nothing.

Ethics, if the above analysis is correct, contains no statements, whether true or false, but consists of desires of a certain general kind, namely such as are concerned with the desires of mankind in general - and of gods, angels, and devils, if they exist. Science can discuss the causes of desires, and the means for realizing them, but it cannot contain any genuinely ethical sentences, because it is concerned with what is true or false.
(掲載日:2019.2.19/更新日: )