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バートランド・ラッセルのポータルサイト



R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)
『拝啓バートランド・ラッセル様(市民との往復書簡集)

目 次

IV.哲学関係書簡・解説
英文(原文)


'・・・。私が想像するに、哲学者たちは、そのおりおりの都合におうじて(意図的に)それほど熱心に研究に従事しなかったり、あるいは一心に研究にうちこんだり、することだろう。そのようにすれば、かれらは政府が行なう容赦ない監視を無事に切り抜けることができるだろうし、そうしなければ、かれらの首は、その身体の他の部分がどこにあろうと、その地理的位置にはおかまいなしにはねられてしまうだろう'
 バートランド・ラッセルは、常に斬首の危険をおかしていた。事実かれは、王政復古(チャールズ2世の王政――1660年より1668年まで)に抵抗したかどで1683年に斬首の刑に処されたウィリアム・ラッセル卿(=ラッセルの先祖)についての逸話を喜んで語る。先祖と同じように彼もまた、自分の主義方針を堅持し、その社会的責任を放棄することを拒んで、権力の命令に屈しようとはけっしてしなかった。
 ラッセルは、(自分の)専門の哲学者としての仕事と社会思想家ならびに活動家としての仕事との間にはっきりとした区別があると主張している。しかしその一方で、もし彼の核戦争反対の運動が失敗するならば、(プリンキピア・マテマティカなどの)彼の初期の業績はだれも啓発することにならないだろうとはっきり指摘する。
 ラッセルは最初、数学論理の開拓者として有名になり、後に社会哲学者としてその影響力がひろまった。それゆえ彼は自分の生涯をファウストのそれになぞらえて、明らかに2つの時代に区分されるとしている。第一期は(第一次世界大戦前夜までの)1914年までの時代であり、その間にラッセルは、数学に真理なるものがあるかどうかを発見する仕事と取り組んだ。A.N.ホワイトヘッドとの共著である彼の大著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』は、1910年に初めて出版された。それはたいへんな分量となり、いささか実際的な方法であるが(in a somewhat down-to-earth manner)、旧式の馬車で出版元に運びこまれた。その原稿は、出版の用がすんだ後は、運びこまれたときと同様、大著にはふさわしくない扱い方であるが、ごみ捨て場に投げ込まれ、焼却されてしまった。しかし、出版の運びになったのは、二人の著者自らが出版費用としてそれぞれ50ポンドずつ寄付したからであった。アインシュタインの相対性理論と同じように、この『プリンキビア・マテマティカ』も、ほんの数人以外には完全には理解されていないと言われている。ラッセルは、この大著を高く評価しますといってきた2人の女性への手紙の中でこう断言している――
「…わたしは、あなたがたお二人が『プリンキピア・マテマティカ』をお読みになられたとは信ずることができません。これまでわたしは、それを読んだ人を6人しか知りません。――ヒットラーに殺されてしまったポーランド人3人と、漸次的な同化作用によって一般住民の中に吸い込まれてしまったテキサス人(Texans, who were absorbed by osmosis into the general population)3人の、計6人です。」
 ラッセルは、1914年8月以後を、自分の第2期のファウスト時代としている。そして、もし『プリンキピア・マテマティカ』が選り抜きの読者層をもっていたと言うならば、今度は、多数の読者層獲得をめざそうとした――彼は、未発表の1946年執筆のエッセイ「わたし自身の哲学」(松下注:My own philosophy → 私の人生観?)のなかでこう説明している――
「第一次世界大戦は、わたしの思想をより緊急かつ実際上重要な問題へと方向転換させた――そのときからわたしは政治哲学と社会哲学を考え続けるようになった。」
 1916年に出版された彼の最初の社会哲学関係の著作である『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction)は、新しい社会を創造するとき直面しなければならないあらゆる方面の問題をとり扱っている。
 ラッセルは超然と立っているのではない。彼はこうした社会問題をあらゆる人々に関係のある問題とみなした。偽りの神秘のベールをはぎ取った彼であったから、だれかのパンツに穴をあけたからといってけっして非難されなければならない理由はなかった。『結婚と性道徳』とか、『幸福の獲得(幸福論)』とかいったような彼の著書は、広く人心にアピールするものをもっており、彼の古典的名著である『西洋哲学史』は、他の哲学者たちの哲学を鮮かに説明している。15歳の少年が、ラッセルに次のように感謝の言葉を書き送っている――
「・・・ある大人たちは、先生のご本を理解するのには、ぼくはあまりにも若すぎると考えているのですが、先生のご本は刺激的であり、非常に明瞭かつ簡潔であると思います。」
 しかしながらラッセルは、一般大衆にわかるようにする代償として、自分の哲学の知的厳正さを犠牲にするようなことは決してしなかった。彼はこう考えていた。
営利目的で通俗化することはよくない。なぜなら、簡略化によってその内容をゆがめることになるからである。簡略化は、観念の本来の内容を犠牲にすることなしに哲学の知的世界を一般の人々にわかりやすくするということとは違っている。それは能力と表現法の問題である。
 1957年に彼は、科学知識を普及化した功績で、国連からカリンガ賞(Kalinga Prize)をおくられた。
 この章では、一方において、ラッセルがどの程度まで人生哲学を人生上の複雑な諸問題と関連させているかを示し、他方において、専門の哲学者としての彼の仕事について述べている。彼が受けとるたくさんの手紙には、彼に通信してくる人たちの道徳的ジレンマが表われている。この意味では、彼は(聖職者でない)一般人からしばしば神の使いとしての予言者、もしくは懺悔を聴聞する神父ともみなされるのである。
 しかしながら彼の答は、ほんとうに気さくである。ラッセルの声ほど神の声らしくないものもないだろう。アドバイスできる場合はアドバイスするが、できない場合は知らないと率直に認めるのである。