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バートランド・ラッセルのポータルサイト



R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)
『拝啓バートランド・ラッセル様(市民との往復書簡集)
目 次

訳者あとがき(日高一輝, 1970.07.01 記)

 この書は、ラッセルものの最後の本となった。ラッセルは、この一書が世に出るとまもなくこの世を去られたのである。
 20世紀最大の思想家といわれるラッセルのその思想内容が、ここに全面的にコンサイスされている。しかもラッセルは、この書の出来栄えを心から喜んでおられた。そして手放しで讃辞を呈された。あの気むずかし屋のラッセルにしては、ほんとうに珍しいことである。(写真:ラッセルと日高一輝氏:ロンドンのハスカー通り43番地にあるラッセルの住んでいるフラットの前にて)
 一昨年(1968年)の暮れ、ロンドンでコンティニューム社のフェインベルグ氏から初めてこの書の企画について語られたとき、わたくしは思わず彼の手を握ったほど嬉しく思ったし、また、ラッセル卿の最後を飾るにふさわしい有意義な仕事であると信じた。その意義については、各方面の人々がそれぞれの立場から評価するであろうと思うが、わたくしは特に次の諸点を指摘したい。

 まず、この書の全編を通して躍如としている'率直さ'である。主としてこの編集に当たられたのはフェインベルグ氏であるが、集められた内容は、各方面から寄せられた手紙にたいして書かれたラッセルの返事であるから、ラッセル自身の著書と同じことである。ラッセルの著作は、歯に衣をきせないで正直に発言することで有名であるが、特にこの書においては、パーソナルな手紙という気安さもあって、かれの普通の著書に見られないほどの率直さをもって、告白したり、論議したり、批判したり、叱ったり、想うことを想うとおりに表現している。ラッセル卿ほどの高貴の身分で、しかも世界にその盛名をはせた人物で、これほど明け透けに自分の心のうちを語れる人が他にあるであろうか。
 つぎにその交信の範囲である。最高の指導的政治家、一流の哲学者、数学者、科学者、評論家、文学者、ジャーナリストから、学生、青少年、6歳の子どもにまでおよぶ。老若男女を問わない。職業と地位のいかんを問わない。白人であろうと、黒人であろうと、人種と国籍の別を問わない。権力者であるからといって特に丁重にし、幼児だからといって粗雑にするということがない。ほんとうに想いをつくし、誠実をつくして返事を書かれた。書くことに彼ほど忙しい身でありながら、無名の学生や幼児にいたるまで、あれほど誠意をこめていちいち返事を書かれた偉人が他にあるであろうか。
 つぎにその内容の多面さと重要さである。宗教、哲学、政治、教育、道徳、平和の問題から、老人の関心事、青年の悩み、恋愛、性行為等の人事相談にまでおよぶ。信仰に迷っている人、時局を憂えている人、学生との対話の断絶に困っている教授、性教育をどうしようかと思い惑っている両親、夫婦の不和に苦しむ家庭、失恋した傷心の学生、オナニズムに陥っている青年・・・。そうした人たちへの回答を、ラッセルは親切に、しかもわかり易くこの書の中で与えている。人類の存亡にかかわるような世界的な大問題から、一人の人間の私事にいたるまで、また、真理に関する深遠な哲学思想から身辺の小さな悩み事や日常の些事にいたるまで、これほど広汎に語ってくれた巨人も少ないのではないか

 ラッセルは、1872年5月18日に生をうけて、今年(1970年)2月2日、その97年の生涯の幕を閉じるまで、ほとんど1世紀にわたって、ロンドン・タイムズ紙をして「500年に1人出るか出ないかの偉大な人物」と評させたほどの輝かしい業績を残されたのである。数学者、論理学者、哲学者として数々の不朽の名著がある。科学普及の功績にたいして、国連からカリンガ賞を贈られている。社会思想家としての論述も数限りなくある。文明批評家としての警世の書も讃嘆に値するほどである。
 ケンブリッジ大学の教授、米国のシカゴ大学とカリフォルニア大学とハーバード大学の客員教授、中国やオーストラリアや欧州各国の大学での招待講義、その他各国へ講演旅行に赴いたり、みずからビーコン・ヒル・スクールを経営したり、教育の実際面でも大きな足跡を残された。
 80歳にして熱烈な恋愛をするほどの情熱をかたむけて文学にも手をそめ、著名な小説集をも世に出した。
 70余種にも上るその著作集は、まさに現代思想界の輝かしい金字塔でもある。
 1949年には、英国最高のメリット勲章をジョージ6世から授与され、さらに翌1950年には、ノーペル文学賞受賞の栄誉に輝いた。
 こうしたラッセルの実績に加えて、さらにその盛名を一世に高からしめたのは、世界平和者としてのその精神と実践であった。第一次世界大戦に際しての反戦論と投獄。第二次大戦後の核兵器禁止と世界連邦実現のための運動。ヴェトナムヘのアメリカの侵略戦争にたいする非難や、チェコヘのソ連の進撃にたいする抗議。そうしたラッセルの組織運動の詳細や実績については、この書の中で、ラッセル略伝や、政治と平和に関する解説や書簡に述べられている。

 ラッセルは、その思想傾向についていえば、哲学上の立場を「中立一元論」においていた。論理実証主義とも、新実在論ともいうべきものであった。経験主義と合理主義が支柱となっていた。どこまでも懐疑しつつ真理を追求し、普遍の立場で総合的に判断する知性を尊んだ。偏狂と迷信と狂熱と独善を排した。
 ラッセルは、ドグマと形式と因襲で思想を害し、捏造した神や教条をもって信者を惑わす既成宗教の悪なる面を批判した。しかしみずからは、職業的宗教家以上に真剣に求道精神厳粛な生活規律に徹していたし、永遠なるもの、実在なるもの、生命の根源を求めては、「神にたいする知識人の愛」と呼んでいた。アインシュタインやシュヴァイツァーに共通する宇宙信仰というか、自然的宗教観というか、そういった深い心情をもっていた。しかも、悩める人々や虐げらた人々へ注ぐ憐憫の情や、不幸な人々の救援のためにおのれのすべてを尽くす愛の実践において職業的宗教家の遠く及ばないものがあった。また、信念を貫くことにおいて、それから正義のために敢然と立ち向かうことにおいて、どんなわが身の不利をも犠牲をもいとわなかったし、その気概まさに日蓮やキリストの法難をも彷佛させるものがあった。
 教育についても、ラッセルは、徹底した自由主義者ではあったけれども、いわゆる放縦を許さなかった。ディシプリン、すなわち規律と鍛練を教育の基本とした。いたずらに既成の信条や社会通念に追従していくのではなく、つねにそれに疑惑を発しつつ真理を求めて進む批判精神と向上心を培っていくべきであるとした。創造的意欲を強化させ、世界性をもつように指導すべきだとした。その理想的人間像として、「輝く美と、すばらしい栄光の世界を創造する力を発揮する者、そして平和をもたらす力を発揮する者、すなわち、聖者、予言者、詩人、学者、作曲家、画家等」を掲げた。「愛と創造こそが、教育の最高原理である」と説いた。
 ラッセルは、その平和論を展開するに当たって、けっして偏ったイデオロギーや感情に発してはいなかった。つねに中正な、そして一貫した原則に立っていた。アメリカの行動を批判したからといって、けっして反米親共というものではなかった。自分はコミュニストではないといっていたし、共産主義を理論の面からも実際の面からも批判していた。ソ連の行動を批判したからといって、けっして反共親米というものではなかった。かれは資本主義の悪を強調してやまなかったし、戦争の元凶は産軍複合体にあると説いていた。
(写真は、故・牧野力教授のアルバムから:ラッセルが晩年すんでいたプラス・ペンリン山荘からポートマドックを望む)
 ラッセルの平和アピールの原則は、人道と自由と平等と平和にあった。第一次大戦に反対したのも、ヴェトナム戦争を非難したのも、人道の原則からであった。アフリカやアラビアや東南アジアにたいする英米をはじめとする白人の植民主義に反対したのも、共産勢力の国内人民の圧迫や他国への侵略を非難したのも、自由の原則からであった。人種差別を非難して、有色人種の解放のために挺身したのも、平等の原則からであった。あらゆる戦争政策に抵抗し、人類の存続のために生命を賭けると叫ばれたのも、平和の原則からであった。ラッセルは、非武装、戦争放棄の「日本国憲法」を世界平和の先駆であり、世界政府への一里塚であるといっていた。これは日本の誇りであり、自分は日本の役割と将来に期待するといっておられた。ラッセルは、できれば自分の国である英国をして、この先駆的模範国たらしめようとして不服従運動を展開した。しかしかれは、ついにそれに成功しないまま世を終わった。してみれば、ラッセルは、身は英国に死しても、そのたましい、あるいは志は、日本の平和憲法に生きているということができよう。
 ラッセルは、青年をこそ頼みとし、その志業の後事を青年に託して世を終えられた。してみれば、ラッセルの志と運動を継承すべき日本青年の存在と意義を考えることができよう。
 それを想い、これを思うとき、この書は、日本の学生や青少年のために良き指針をあたえるものであることを信じて疑わない。
 しかもこの書は、思想や教育や時局や身辺の人事や、いろいろのことについて多くの質問をもっている一般の人々にたいして、それぞれ直截簡明な解答を用意してくれている。
 じかにラッセルに手紙を書くことはもはやできなくなった。けれどもラッセルは、かれの答を求める世界中の人々のために、この一書をあとに遺してくれたのである。