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バートランド・ラッセル 略伝

* 出典:R.カスリルズ、B.フェインベルグ(共編)、日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様』(講談社、1970年7月刊)


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 バートランド・ラッセル(1872.5.18~1970.2.2)は、ヴィクトリア王朝時代の急進派として有名なアムバーレイ卿夫妻の息子であり、ヴィクトリア王朝時代の総理大臣を2期勤め、1830~1832年の選挙法改正法案で名声をあげたジョン・ラッセル卿の孫として、1872年5月18日に生まれた。彼の家系は、スチュアート王家(1371年から1603年までスコットランドを統治し、その後1603年から1714年までイングランドとスコットランドに君臨)に対して叛乱を起こし、1683年に処刑されたウイリアム・ラッセル卿から始まり、ホイッグ党(自由党の前身で、トーリー党と対立していた民権党)の改革主義に深く根を下ろしていた。彼は4歳の年に、そのときすでに両親とも亡くなっていたために、兄のフランクとともに(ロンドン郊外の Pembroke Lodge に住んでいた)祖父母のもとにあずけられた。

 この新しい家での生活は、安楽ではあったけれども修道院に閉じこめられたようなものであった。ラッセルは、清教徒の祖母から押しつけられた(情愛のこもったものではあったけれども)スパルタ式教育に服従させられて、内気で寂しがりやの少年として生い育った。(写真は、9歳の時のラッセル:理想社刊『ラッセル自叙伝』第1巻より)彼の内向的な気質は、疑いもなく、彼の両親の生涯とその若くしてこの世を去った死去の秘密によって一層助長された。彼はその秘密を後に両親のプライベートな書類を編纂しながら解こうとした(松下注:ラッセルが3人目の妻パトリシアとともに1937年に編纂出版した The Amberley Papers, 2 v.のこと)。人生についての真理を発見したいという思いがつねに彼にとりついて離れなかったが、それは、彼のゴッド・ファーザー(生まれた子供の洗礼に立ち会って名づけ親になる教父)>であったジョン・スチュアート・ミルや「功利主義者」の信条に対する青年らしい讃美からもうかがえるけれども、それと同じくらい、半ばはこのような彼の幼少時代の出来事にも帰因しているのである。ラッセルは、書くことによって孤独からの救いをもとめようとした。彼は、一般に正しいとされているものの考え方や一般に受けいれられている信仰にたいする疑問を(秘密のノートに)書きつけた。青春期の初期までに、彼はすでに、宗教的なドグマ(独断的教条)にたいして懐疑的になっていたし、人間の幸福こそが人生の究極の目標であるとかたく信じていた
 ケンブリッジ大学の学生としての数年間のうちに、彼はその深い知識欲をともにした才気煥発の友人たちと交わって彼の天才を一層確かなものにしたし、一方、その無口な非社交性を打破した。彼はそこで別人のようにつくり変えられ、すばらしくはきはきと物がいえる、そしてより溌剌とした外交性を身につけたのである。(写真は、21歳頃のラッセル:理想社刊『ラッセル自叙伝』第1巻より)
 彼の最初のロマンスは、彼の家族によって強く反対された。家族は、彼をパリ駐在の外交官の地位につけて2人の仲をさこうとした。しかし、それにもかかわらず、1894年、ついに彼は結婚にゴールインした。こうして結ばれたアリス・ピアーサル・スミスは、クエーカー教徒(17世紀の中ごろ英国に起こったキリスト教の一派)であり、婦人参政権運動の熱心な代表的人物であった。結婚は17年間続いた。
 ラッセルは、数学の科学的基礎の研究を第一の仕事として没頭したのであるが、それも、1910年に『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の第1巻が出版されるとほとんど同時に終わりを告げた。
 ラッセルの仕事は、性格上、非常な集中力を必要とする、厳しいものであったが、アリスはそのためには欠くことのできない、奉仕に徹したパートナーであった。疑いもなく2人の関係は、ラッセルが信念や仕事にたいしてひたむきな献身をするのに向いていた。こうした年月の間、ラッセルは数学に夢中になっていた。
 しかしそれでもやはり気晴らしや幕合い>(劇)もあった。そのうちで最も意義深いものは、後にラッセルの仕事となり思想ともなったものに手をつけていたことであった。すなわち、まず一つには、1896年(ラッセル24歳)に彼の最初の著書(German Social Democracy, 1896)となって出版された(最高潮に達した)ドイツ社会主義研究の一時期であった。それは、人間の問題に関心をもつことを初めて誓約した時期であった。その二は、1907年に、婦人参政権論者のために闘った選挙戦であった。その三は、1901年の初めに、一親友(松下注:ホワイトヘッド夫人)の病気が、彼の「神秘的な洞察力」を突如として啓発してくれたあの主観的な経験(一種の回心)だったように思われる。それは、他人の苦痛を、まさしくわが身の苦痛そのものとして味わうことのできる経験であった。この洞察力が、本当の具体的な形をとって現われたのは、第一次世界大戦が勃発した時であった。ヨーロッパを巨大な屠殺場(とさつじょう)と化することに抗議し、良心的参戦拒否者の権利をまもるための無私無欲な献身となって現われたのだった。
 ある何かの事件が、ラッセルの生涯におけるきわめて重要なモメントとして特筆することができるかと思うと、一方においては、それとはまったく趣を異にする分野にせっせと身を入れているのである。すなわち一方において、執筆、講演、それからたくさんの重要な、そして論争の的となるよう時事問題にとり組んでいたかと思うと、同時に、他の時間を、大ぜいの著名人との活気のある、そしてときには大いに議論をたたかわせるような付き合いに有効に使うのだった。その著名人の中には、ギルバート・マーレイ、D.H.ローレンス、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、オットリン・モーレル夫人、それからブルームズベリー・サークル(グループ)、T.S.エリオット、ジョセフ・コンラッド等がふくまれていた。コンラッドは、ラッセルが特別の親近感を感じていたごく少数者のひとりだった。実際に会ったのは、きわめて稀であったけれども、後にラッセルが自分の息子2人の名をコンラッドの名にあやかって付けたのは、深い感情移入の印であった。

 第一次大戦は、ラッセルの思想に深い社会意識をうえつけた。すなわち大戦は、他の人々の苦痛にたいする自分の同情心を増大してくれたばかりでなく、また6ヵ月の投獄をふくむわが身にうけた苦難をとおして、個人の自由を制限する国家の拘束力を彼はじかに知った。その国家権力にたいしては、個々の人間などまったく無力にみえたのである。
 1920年、彼はロシア革命の理想にたいする熱意に燃えて、労働党代表団の一行とともにソ連を訪れた。新しいソヴィエト国家の初期の混乱状態にたいする彼の反発は、2つの相反する感情となって表われた。一方においては、彼は変革を歓迎してはいたけれども、自分が実際に出くわしたその不潔さや苦痛をみて、自分の考えを変えたのである。そのころ彼は、資本主義をすでに否定していたが、さればといってそれに代わる幸福への道は全然存在しないと思っていた。しかしながら、彼が健全な社会のために欠くべからざるものと思っている要素である共有の原理と、権力に平等にあずかるという原則の両方をそなえているギルド社会主義(20世紀の初め英国に発達し、産業国営と組合員による産業経営を主張)こそが社会問題にたいして最良の解決を与えるものと考えていた。ロシア革命を観察しての彼の意見は、同年に、『ボルシェヴィズムの理論と実際』(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)という彼の著書の中に記述された。
 ロシアから帰国すると、彼は北京大学から招聘されて講義をした。そして1920年から1921年にわたる9カ月間を中国で過ごした。しかもその大部分を病床にあって一連の重病からの回復をはかりつつ過ごした。彼が病気にかかっているとき、ラッセルが死んだという噂が流布された。それでラッセルは自分自身の死亡記事を読むという、いとも奇怪な特権を享受した。ドーラ・ブラックが中国に彼のお伴をした。そうして英国に帰国すると2人は結婚した。
 ラッセルは初期においては合理主義の世界を信じており、それが、彼の跳躍台となっていたところの自信とうぬぼれの強いヴィクトリ王朝時代の社会によって育成されていた。ところがそれも、第一次世界大戦によって砕かれてしまった。また、彼は革命ロシアを訪問することによって完全な幻滅を感じさせられた。彼が、人間というものは合理的な行ないをすることができないものだと考えたわけではないけれども、次の10年間は、人間の愚かさの原因となるものを減らす方法を発見しようと試みることになる。彼は必然的に教育の分野に導かれた。それで彼は、彼自身2人の幼い子ども(1921年に生まれたジョン・コンラッドと1923年に生まれたキャサリン)をもっていたので、1927年に自分自身で学校を開いた。社会一般の考え方を変えるためには、教育の方法と、目的の広範な修正が必要であると彼は信じていた。教育は、国家的な目的よりもむしろ国際的な目的のために役立つものであるべきだし、青年は同胞と戦うよりもむしろ自然と競うことを教えられるべきだと彼は考えた。
 ラッセルの家庭生活と彼が創設した実験学校の数年間は、彼の著述のためには非常にみのりの多い年月であった。1921年から1931年におよぶ10年間には、社会思想の全般にわたる15冊の著書が出版された。その中には、『原子入門』(The ABC of Atoms, 1925)、『相対性理論入門』(The ABC of Relativity, 1st ed., 1925)、『結婚と性道徳』(Marriage and Morals, 1929)、『幸福の獲得』(The Conquest of Happiness, 1930)のように、特に普通一般の人々を対象にしたいくつかの著作もふくまれていた。それに加えて彼は、1922年と1923年の2度、独立労働党候補としてチェルシー選挙区から国会総選挙に出馬した(彼はその2度とも落選した)。また彼は、機会を得て数度アメリカ講演旅行を行なった。1931年の旅行は、兄の死後間もなくのことであり、第3代ラッセル伯爵として渡米した。しかしながら彼は、自分が継承した爵位をそう重要なものとはみなしていなかった。彼が国会の上院で最初の演説をしたのは1937年になってからだった。4年間の別居の後、1935年に彼は、ドラ・ブラックと離婚した。1930年に始まった失意と悲観の時代が続いていた。その後彼は、再び哲学上の名声をとりもどそうと決心して、哲学の仕事に戻った。
 ドイツにおける国家社会主義の出現は、ラッセルの強い反発をうけることになった。彼はそれにたいする痛烈な批判を書いた。彼は第二次世界大戦を予想した。しかし1936年の段階では、ドイツ問題を平和的に処理することを主張した。彼はその主張を英国政府の屈辱的譲歩政策であるミューニック政策(1938年、第二次世界大戦の直前、英国は、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスの4カ国首脳会談を提唱し、その会議を南独のミュンヘンで開き、いわゆるミュンヘン協定に調印。チェコスロバキアの解体をめぐって、英仏が独伊に大幅に譲歩した屈辱的政策のこと)に支えられて、さらに推し進めた。彼は、どんなことでも戦争よりはましであると考えたし、ドイツは、自分に抵抗するものが何もなくなれば、けっきょくその軍国主義の愚かしさがわかるようになろうと考えたのである。ところが大戦が始まって1年後には、彼はこの見解を変えることになる。そして、より大きな悪(例:アウシェビッツ)に打ち勝つために不可欠な場合は、ときには戦争も正しい(松下注:やむをえない)とされることがありうると考えた。
 そのうち彼は、彼の秘書をしていたパトリシア・スペンスと結婚した。そして2人で『アンバーレイ論文集』(The Amberley Papers)を編纂した。それが1937年に出版された。その同じ年に次男のコンラッドが生まれた。彼とパトリシア・ラッセルは、コンラッドを伴ってアメリカに渡った。あとの子どもたちも1年後にやって来ていっしょになった。
 アメリカで彼は継続して大学教授の地位を得た。1940年に彼は、ニューヨーク市立大学の教授に任命された、ところがその任命が、彼の主張する道徳なるものがアメリカの教育の方針と相容れないとの理由で取り消されたのである。その問題(The Bertrand Russell Case)は今日なお論争のまとになっている有名な事件である。その後ラッセルは、全米にわたってボイコットされてしまった。そうして生計の道をことごとく断たれてしまった。最後にバーンズ財団で5年間の勤め口をあたえられ、そこで哲学の歴史を講義した。この就職の後に、さらにまた論争がおこって、けっきょく彼は2年後に解雇された。その結果裁判沙汰になった。その法廷で財団の理事長であるバーンズ博士は、ラッセルが浅薄な講義をしたといって非難した。実際のところその講義は、後に1945年に出版された『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy)の最初の2/3から成り立っていたのである。ラッセルは、裁判に勝った。1944年に彼は英国に帰った。英国では彼は、ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジで5ヵ年間の講師として任命され、また終身評議員に任命された。
 彼の上院における演説はごく稀だったが、日本に原爆が落とされた直後に上院で大演説をした。それは、原爆からさらに水爆に発展するだろうことを予言し、その危険性について警告したものだった。そういえば彼は、すでに1923年に彼の著『原子入門』(The ABC of Atoms)の中であらかじめ原子爆弾を予想して論じていた。第二次大戦の終戦とともに、彼は世界政府への運動を激しく展開していった。彼は、新たな戦争を防止するたった一つの方法は、あらゆる権力(松下注:ここでは、軍事力及び武力や国家主権)を超国家的な権威に付与することであると主張した。これは同意しない国々といえども、このオーソリティに賛同することを強制されるべきだと彼は主張した。これと同じような考えが、米国政府が受諾したバルック・プラン*1にもられていると彼は思った。ソ連がその提案を拒否したとき、ラッセルは、ソ連を強制してそれを応諾させるために原爆戦争をもって脅かすべきことを「示唆」した。彼は、スターリンの専制政治や、ソ連帝国主義者たちのねらっていることが、やがて自分の意見の正しいことを証明するようになると思っていた。当時のラッセルのこうした見解が先触れの役をはたして、彼は、いままでになかった社会的地位につく時代を迎えることとなる。その最高潮が1949年に授けられたメリット勲章であった。彼はBBCから放送をした。軍隊で講演をした。それから反ソ同盟に加わるようノルウェー人を説得するために政府代表としてノルウェーに派遣された。しかしながらこの時代は短期間で終わった。どうしてかというと、ソ連が間もなくみずから原子爆弾を開発することとなったからである。それからというものラッセルは、共同の核兵器撤廃によるのでなければ世界平和は達成されないと確信するようになった。また彼の不慣れな高い社会的地位が彼をしてその態度を深刻に考え直させたのだった。さらにごく最近にいたって彼は、世界平和を脅かすのは、ソ連の政策よりもむしろ米国の政策であると信ずるようになった。1950年にラッセルはノーベル文学賞を授与されたということを知ったのは、アメリカに行っているときであった。

 1952年、パトリシアとの離婚、そしてアメリカ人著述家エディス・フィンチ(Edith Finch)との結婚とともにラッセルの生涯における新時代が始まった。この時代の特徴は、彼の政治的で建設的な活動が激しくなったことである。1930年代と、第二次大戦の騒乱の数年間にいだいた彼の見解は、荒涼とした悲観的なものだった。それが1950年代には、彼の生まれつきの楽観的な面と人間性への信頼が急速に再生したのである。
 そうして、核戦争を防ぐために働くことが彼の主たる関心事となった。彼は、その活動の領域が恐ろしく広範なものとなったのであるが、まず最初に攻撃を集中したのは、増大してゆくアメリカの極端な偏狭さに対してであった。その偏狭さは、マッカーシー主義者(極端な反共主義者のこと。米国共和党上院議員マッカーシーの名からこの名称が生まれた)が赤狩りで国論をリードした時代にその最頂点に達した。ラッセルはつねに、現在もそうであるが、個人の至上権を信奉して、迫害された人々の味方となって戦った。1916年に、6人の良心的参戦拒否者たちが平和主義のリーフレットを流布したかどで投獄されたとき、ラッセルは、それは自分が書いたものだとみずからすすんで宣言し、当局をしてその6人に代わって自分を始末するようにしむけたのであった。その結果は、ラッセルが行った弁論で有名になった裁判となったのである。彼は百ポンドの罰金刑に処せられた(後に入獄)。そして即座にトリニティ・コレッジの教職をひ免されたのである。そのときの彼の弁論の写しが後に出版されたが、たちまち政府から発売を禁止されてしまった。彼が政治犯を救うために介入して成功をおさめた記録は、なかなかに印象的である。その鮮かな例はラコシのばあいである。彼はホーシイ派*2のために獄に投ぜられた有名なハンガリーの共産党員であった。ラッセルは彼のために大いに抗弁につとめた。そのお蔭でラコシは、ついに1940年に釈放されることとなったのである。それは、1849年にロシアのために捕獲されたハンガリー国旗との交換においてであった。
 ラッセルは1953年、(米国において)ローゼンバーグ夫妻*3が死刑の宣告をうけ、すぐ続いて処刑されたのを知って非常なショックをうけた。彼はすみやかに行動を起こし、当時ローゼンバーグ夫妻との共謀の罪にとわれて投獄されていたモートン・ソベルのために、彼を守るべく戦っていた。
 その後もラッセルは、1960年代の間に、数えきれないほどの個人のためにその救出運動を展開することになる。その中には、ベン・バーカ、トニー・アムバティーロス、それからハインツ・ブラントという著名人もあった。それからまた、ケネディ大統領の暗殺事件を徹底的に調査することを発起して、その運動を進めたりもした。
 ラッセルは、戦争反対のため果敢な行動をぐんぐん推し進めていったため、彼の名前が平和運動と同じ意味にうけとられるようになった。彼の家は全世界から来る手紙の洪水だった。こうした手紙に返事を書くことが、すでに完全に予定が決まっている仕事の日課に、さらに追加の仕事ととして加わった。

 1954年にビキニの水爆実験が行なわれ、それがラッセルの仕事の緊急重要性を一層増大することとなった。彼が「人類の危機」(Human's peril)と題して行なったBBC放送は、核戦争の結果を十分実感させ、無関心な一般大衆を覚醒させた。彼は、核兵器撤廃のための効果的な綱領を作る努力をしたのであるが、そのため、彼の目的に賛同する全世界の主要な科学者を集めるのに3年間を費した。声明書が用意されたが、それに最初に署名したのがアインシュタインであった。アインシュタインは死の直前にサインしたのである。このラッセル=アインシュタイン声明の署名者たちが中核となって、1957年、ノヴァ・スコシアで第1回パグウォッシュ科学者会議が開かれた。これには、東西両陣営の科学者が参加した。ラッセルは、この会議とそれに続くパグウォッシュ会議の議長に選ばれた。パグウォッシュ運動の目的と、そのなし遂げた業績は、核兵器の発達にともなって増大する人類の生命の危険にたいして、政府ならびに一般の注意を喚起した。その特筆すべき最大の業績は、1963年に締結された部分的核実験禁止条約にたいして果たした役割であった。しかしながらラッセルは、パグウォッシュ会議が核兵器撤廃にたいして決定的影響をおよぼすことができるかもしれないという見込みだけでは満足しなかった。そこで彼は決然として他の方法をとることにした。彼は、1916年、第一次大戦を終止させるよう尽力してほしいとウッドロウ・ウィルソン米大統領に公開状を書いてアピールしたと同じ精神をもって、今度はアイゼンハウアーとフルシチョフに書簡を送って両国政府間の和解を勧告した。アイゼンハウアーに代わってダレス(国務長官)が返事をよこした。それに続く書簡のやりとりが、1958年に『ラッセル・フルシチョフ・ダレスの重要書簡集』(The Vital Letters of Russell, Khrushchev, Dulles, 1958)という名の本の形式で出版された。けれども、それはただ米ソ両国政府の立場を強調したにすぎなかった。そして、核兵器撤廃にたいする大国おのおのの態度を前よりも明瞭に一般に知らせる結果になったのである。これらの書簡は、当時の緊急問題と直接取り組んでいた全世界の指導者たちに向けて書き送ろうとしていた何百というラッセル書簡の前ぶれであった。
 彼は、それまでにひき出した反応では満足せず、尽きることを知らないエネルギーをもって、大衆の抗議によって戦争の回避を可能にする方向へ向かって行動を起こした。1958年、ラッセルを総裁とするCND(Campaign for Nuclear Disarmament: 核兵器撤廃運動)が発足した。以後4年間、激しい活動がつづいた。いまではもう平和の使徒として確固たる地歩をきずいたラッセルは、まず初めに政府に抗議する大衆の平和行進を指導し、その後、増大しつつある核戦争の脅威にたいして効果的に立ち向かうために、百人委員会(Committee of 100)を率いて大衆の不服従運動を指導した。1961年、国防省の玄関前で坐り込みデモを指導し、その後間もなく、夫人とともに逮捕され、投獄された。
 この期間の彼の活動は、西側列強の政策に反したものではあったけれども、人類の将来にたいする彼の大いなる貢献と業績は、数多くの社会的団体から相ついで公式に承認されたのである。1957年には、彼は、科学の普及のために彼の果たした優れた役割にたいして、ユネスコからカリンガ賞を贈られた。1960年には、欧州文化の進歩への貢献が讃えられてデンマークからソニング賞を贈られた。彼が投獄された1961年には、ロンドン大学経済学部の名誉評議員に選ばれ、1962年の5月には、彼の90歳の誕生日を祝って国会下院で午餐会が催された

 その老齢にもかかわらず、また、それまですでに圧倒的な業績をなし遂げているにもかかわらず、彼はさらに書くことで大活躍をした。1952年、すなわち80歳以後の少なからぬ業績は、20種の著書を出版し、数百に上る論文を発表したことであった。これは彼が一生の間に書いた全書作の約3分の1に当たるものであった。それには、彼の最初の短編集『郊外の悪魔』(Satan in the Suburbs, 1953:写真参照)、『著名人の悪夢』(Nightmares of Eminent Persons, 1954)、それから『倫理と政治における人間社会』(My Philosophical Development, 1959)、『なぜ私はクリスチャンでないか』(Why I am not a Christian, and Other Essays, 1957)といったようないくつかの重要な哲学および倫理上の著述がふくまれている。

 1962年にラッセルは、キューバ危機に際して、互いに歩み寄るようにと、フルシチョフとケネディにアピールしたし、中国とインドの国境紛争の際はネールと周恩来にアピールした。そのとき、世界の指導者と直接接触するという彼のとった方法が、完全に正しかったことが立証された。特にネールおよびフルシチョフとの間では、この時期におよんで初めて働きかけたからではなく、それ以前から長い間の通信で築き上げた相互の尊敬が、事件の経過に好影響をあたえたことは疑いない。その事件についての説明が、相互の交換書簡とともに、翌年出版された『武器なき勝利』(Unarmed Victory, 1963)の中に発表されている。

 1963年までに、世界的事件にたいする彼の積極的な関わりあいの度合いが相当に増大していたので、彼はついに『バートランド・ラッセル平和財団」(Bertrand Russell Peace Foundation)*4の創設にふみきった。この組織は、彼がそれまでかち得た広範な支持を固めるだけでなく、平和のための国際的な仕事の重荷を、ある程度ラッセルの肩から下ろそうとの意図をもって企てられたものであった。この財団が関係したのは、主として国際問題であった。特に「第三世界」に属する国々の人民の熱意が遂げられるよう支援してやることであった。ラッセルは一貫して植民地主義を嫌悪し、民族解放運動の権利を擁護した。1920年から1921年にいたる中国訪問以後、彼は、外国の支配からみずからを解放しようとする中国人の努力を支持した。同時に彼は、世界を左右するアメリカ資本の力が増大していくことに反対し、それを警告する論文を書いた。彼は、英国の帝国主義政策に対してもまた批判的だった。すなわち、1901年には南アフリカ(松下注:ボーア戦争)において果たした英国の役割を非難し、1930年代にはインドにおける英国の役割を非難し、さらにごく最近には、南アフリカとローデシアにおける民族隔離政策(アパルトヘイト)を英国が暗黙のうちに支持したことを慨嘆した。
 1963年以来、彼はヴェトナム戦争の問題に専念した。そしてアメリカがそれに介在したことを激しく非難した。英国政府が米国の政策を支持したとの理由で、彼は1965年に英国労働党を脱党した。その一年後に彼は、ヴュトナムにおけるアメリカの犯罪行為を調査するために開設した「ヴェトナム戦争犯罪国際裁判」*5の予備会議で演説した。ラッセルは同裁判の総裁に選ばれた。その裁判の判決は、ラッセルの『ヴェトナムの戦争犯罪』(War Crimes in Vietnam)と同じく1967年に出版された。また同裁判の全記録が、1968年の『沈黙の罪に抗して』(Against the Crime of Silence)の中に発表されている。「ヴェトナム・ソリダリティ・キャンペーン」*6によって組織された1968年春のロンドンにおけるヴェトナム戦争反対のデモは、少なからずラッセルの指導に負うものであった。なぜなら彼は、1966年、同キャンペーンの創始に当たって重要な役割を果たし、その創立総会において演説をしていたからである。1967年から1969年までの間に、彼の自叙伝全3巻が世に出た。そして広く世の喝采を博した。ラッセルの最後の公的活動は、中東の危機に関する声明であり、それはラッセルが死亡する2日前(1970.1.31)に、カイロで開催された世界国会議員会議で代読された。


(1)バルック・プランというのは、1946年6月14日、国連原子力委員会アメリカ代表バーナード・マンズ・バルック(Baruch)が、米国の提案として示した原子力国際管理案であった。それは、ウラニウムとトリウムの採掘、製錬、鉱石資材の所有、それから核の力の使用に必要な設備の建設と作業等のいっさいを独占する原子力開発国際オーソリティというものを国連がつくり、それに従来アメリカだけが所有していた情報を与えるというものであった。バルックは、元実業家で、青年時代までにニューヨークの株式取引所を舞台に活躍していたが、後にウィルソン大統領に登用されて政府の戦時産業局長となり、1919年パリの平和会議に際して経済最高顧問となり、1942年には、ルーズヴュルト大統領に嘱望されて戦時動員顧問として活躍した。第二次世界大戦末期から終戦後にかけて、ルーズヴェルト、続いてトルーマン大統領に特別経済済顧問として重きをなす一方、原子力の統制に関する問題を研究し、この計画書を出すにいたった。
 けれどもこの案には、ソ連にとってどうしても受諾できない条項が付言としてついていた。米国はジェスチャーとしてこれを提案しても、その真意においては、ソ連がそれを受諾しないことを希望し、したがってこの提案は実現しないことを望んでいた。
(2)ミクロス・ナビバンヤ・ホーシ-は、ハンガリーの提督で、1920年には、国会の決議によって摂政に推され、正式に国家元首代理となった実力者である。その軍事権力による支配が共産主義者によって非難されると、彼は徹底的な共産主義弾圧に乗り出した。
(3)ローゼンバーグ事件は、ローゼンバーグ夫妻(ジュリアスとエセル)を原爆スパイとして米国が処刑した事件である。夫妻への容疑は、第二次世界大戦中にロス・アラモスの原爆工場に勤務していた義弟のグリーングラスから原爆製造の機密を受け取って、それをソ連に売り渡したというものであった。唯一の証拠は、グリーングラスの自白というのであった。他の関係者は容疑事実を認めて減刑されたり、保釈されたりしたが、夫妻だけは最後まで潔白を主張し、最高裁にまで上訴して争ったために、ついに1953年6月19日、電気椅子で処刑された。夫妻を陥れたグリーングラスは、途中から、自分は夫妻を失脚させるために偽りの証言をしたという書簡を友人あてに書いたり、またその容疑事実は機密というべきものではないという証言がアインシュタイン、オッペンハイマー、ユーリー等によってなされたにもかかわらず、最高裁はとり上げようとしなかった。しかも、自白すれば助命するといって夫妻を誘惑したが、夫妻はそれを拒否し、2人の息子のために、「真実を残してやる」と主張し、まったく罪のないことを叫びつづけて死についた。エセルは遺書の中で「わたしたちは、アメリカ・ファシズムの最初の犠牲者です」と書いた。米国は、ソ連の核所有によって米国の原子力独占が崩れた責任を夫妻になすりつけて表面を糊塗しようとしたことと、朝鮮戦争において米軍が総退却を余儀なくされていたその不面目を夫妻のせいにしようという政略的意図が認められた。ローマ法王ピオ12世、元フランス大統領エリオ、アインシュタイン、サルトル、アラゴン、ユレンブルグ等、多くの著名人が助命運動に加わり、前例のないほど広範で強力な国際的抗議運動が展開された。ラッセルも起ち上がって、米国を真っ向から非難したことはもちろんである。
(4)「パートランド・ラッセル平和財団」は、1962年3月に設立された。目的は、独自の報道機関(新聞、ラジオ、テレビ、レコード、映画など)を駆使して、世界に向かって平和をアピールするということになっていたが、実際には、主として「ヴェトナム連帯運動」や「ヴェトナム戦争犯罪国際裁判」推進の拠点になった。
(5)「ヴェトナム戦争犯罪国際裁判」は、ヴェトナムにおける米軍の非人道的行動と、米国の侵略政策の実態を明らかにし、その資料を提示して全人類の良心に訴えるために、ラッセルの提案と指導によって1967年、スウェーデンのストックホルムにおいて開催されたものである。ヴェトナムから200人におよぶ証人が招かれ、資料物件は、文書、写真、映画、レコード等として公表された。
(6)「ヴェトナム連帯運動」 ラッセルは、1962年以来、ヴェトナム反戦を叫んで、あるいは言論に、あるいは街頭行進に活発な運動を展開してきたが、ついに、「バートランド・ラッセル平和財団」のほかに、大衆動員のための「ヴェトナム連帯運動」を組織し、その結成大会としての国際会議を1966年6月4日ロンドンのマハトマ・ガンジー・ホールで開催した。ラッセルはその総裁に推薦された。そして当日の会議において、その翌年、「ヴェトナム戦犯国際裁判」を開くことが決議された。