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『ラッセル自伝』(松下彰良・訳)

The Autobiography of Bertrand Russell
(London; Allen & Unwin, 1967-1969. 3 vols. illus. port. 25 cm.)


総目次

第3巻(1944-1967)第4章(通しで第16章):「バートランド・ラッセル平和財団」 累積版

  1. '核の危機'(という言葉)は、各国政府が核兵器を保持する間存続しそうな危険を,また,もしそのような(大量)破壊兵器が個人の手に渡ればもっと長びきそうな危険を,表していた。・・・。(The nuclear peril represented a danger which was likely to last as long as governments possessed nuclear weapons, and perhaps even longer if such destructive objects get into private hands. )
  2. 長年の間私は、迫害されている少数派(マイノリティ)や、多くの国々において不当に投獄されていると私が考えていた人々について,関心を持ち続けてきた。・・・。
  3. この2つの事例は、思い出すといささかきまりが悪いが、私はまったく後悔していない。・・・。
  4. 1963年、ギリシアの抵抗運動の闘士たちへの私の関心は頂点に達した。・・・。
  5. その同じ年(1963年)の4月,私はパレスチナ・アラブ難民の状況を調査するため、イスラエルに代理を派遣した。・・・。
  6. こうした活動を一つの組織(注:ラッセル平和財団)の役割として行うことができるようになって以来、過去数年間をとおして、特に最近、私は、世界の多くの地域に'実情調査 '(真相調査)のための代表を派遺してきた。・・・。
  7. このような活動が全てどんどん積みあがって増えていった。・・・。
  8. ラッセル平和財団を創り上げるために多くの人々が働いてくれたが、私自身だけでなく財団も、ラルフ・シェーンマンに恩義があることを強調しておきたい。・・・。
  9. 1963年の春から初夏にかけて、進んでこの新しい財団のスポンサーになってくれそうな多くの人々宛に、私の名儀で、手紙を送った。・・・。
  10. バートランド・ラッセル平和財団(の方)は、より直接的に、平和活動の'政治的な面'及び'論争点な面'を取り扱うことになっていた。・・・。
  11. われわれの野心的な計画のリストを読み、新聞記者たちは、われわれがどこから資金を得ようとしているのか尋ねた。・・・。
  12. われわれは、際限もないほど多数の個人と接触した。・・・。
  13. けれども、世界の多くの地域の人々がわれわれを支援してくれた。・・・。
  14. このような多少とも'行きあたりばったりの資金集め'への後退は、いつになったらどれだけの'資金(金額)'を財団が持つことになるか確信を持つことは不可能ということであった。・・・。
  15. 英国の新聞(社)の大部分は、ほんの少ししかわれわれ(の活動)を支援してくれなかった。・・・。
  16. 私が'もうろく'しているかどうか、あるいは、それどころか、彼らが以前信じていたよりももっと私は'ボケ'てしまっているかどうか、結論を出したいと思っている人々に対しては、−−私は数え切れないほど多くの新聞やテレビのインタビューに応じており、幾つかの映画を作っているので−−、そうする十分の機会がこれまで与えられてきている。・・・。
  17. このほかにも、「老齢による無分別(もうろくによる愚かさ)」に関係があると考えられるので、ここで言及してよいと思われる、'私に対する批判'が4つある。・・・。
  18. その他にも、私が最近知った二つの噂もひろまりつつあり、それについても腹立だたしく思っている。・・・。
  19. 平和財団が設立されて2ケ月もたたないうちに、世界のすべての人たちと同様、ケネデイ大統領暗殺(1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺)のニュースでショックを受けた。・・・。
  20. 平和財団そのものは、この問題に関する事実を探り出しそれらの事実から得られる情報を広めつつある人々を支持することに関与しない方がより適切だろう、とわれわれは考えた。・・・。
  21. 1963年4月の少し前から、私の時間や思考が、しだいにヴェトナムで行われている戦争に奪いとられるようになってきた。・・・。
  22. こうした年月を通じて、最も楽しかったことの一つは、ヴィクター・パーセル(Victor William Williams Saunders Purcell, CMG, PhD, Litt.D (Cantab.): 1896〜1965.1)との親交であり、妻もその楽しみを共有した。・・・。
  23. 『ヴェトナムにおける戦争犯罪』と題する,ヴェトナムの情況とその意味について論じた私の著書が,1967年1月の初めに出版された。・・・。
  24. R.シェーンマンの報告書はきわめて重要なものであった。・・・。
  25. 時々私は、北ヴェトナム人からヴェトナム戦争における多様な展開について意見を言うよう求められてきた。・・・。
  26. われわれ(私と私の同僚)がヴェトナムの現状を調査すればするほど、ヴェトナムに対する米国の態度はまったく弁護の余地のないものであること、またこの戦争が新しい拷問の手段によって未曾有の残酷さをもって行なわれつつあるということ、を確信するにいたった。・・・。
  27. この国際法廷(ラッセル法廷)は、−これについてはヴェトナムに関する私の著書に書いてあるが−−、全世界にわたって広く一般の関心をひきつけた。・・・。
  28. 1966年の夏、広範囲にわたる調査研究及び計画のもと、私は全世界の多くの人々に手紙を書き、ヴェトナム戦争犯罪国際法廷への参加を要請した。私はその回答に勇気付けられ、間もなく18人前後の人々から受諾の返事をもらった。・・・。
  29. われわれに反対する者たちは、われわれが準備しつつあることが本気であること(真摯であること)がわかると、私が長年の間慣れっこになっていた、ある種の激しい抗議の声があがった。・・・。
  30. 国際法廷に関するこうした騒ぎの全てが、当然のことながら、平和財団そのものに対する新たな関心を呼び起こした。・・・。
  31. 1940年代の終わりから1950年代の初めにかけて、私はスターリンの独裁主義の恐怖を深く心に刻み込まれ、そのために'冷戦'は容易に解決されないだろうと信じていた。・・・。
「あとがき」