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『バートランド・ラッセル自伝』11-020(松下彰良・訳)

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* 婦人参政権について


 母は,婦人参政権支持の集会にしばしば出席して,よく演説した(誤訳:日高一輝訳『ラッセル自叙伝』では,「母は,婦人に投票するようにすすめるため,諸種の集会に出席して演説するのが常であった」となっている。イギリスで婦人参政権が認められたのは,1926年であることに注意)。私は,母の日記の一節を読んだが,そこには,シドニー・ウェッブ夫人(松下注:結婚前なので,正確には,ベアトリス・ポッター)やレディ・コーテネイが入会しているポッター婦人会のことを社交界の気まぐれ者たち(social butterfly)というふうに書いてあった。後年私がシドニー・ウェッブ夫人をよく知るに及んで,そのウェッブ夫人が母にはいかにもうわついたひとのように思われたことを思い出しては,母のまじめさにいまさらのごとく少なからぬ尊敬の念をいだいたものである。
(松下注:ラッセルが読んだ母の日記の一節が,母が亡くなる直前の1874年後半に書かれたものだとしても,1858年生まれのベアトリスは当時16歳=未婚である。それゆえ,16歳のベアトリスがポッター婦人会の会員であり,母にうわついた人に見えたというのはどうも解せないと思いつつ,「要調査」という注をつけて,とりあえず,ラッセルのホームページに対訳をアップロードしておいた。 疑問点を解決すべく,M. コール著『ウェブ夫人の生涯』(誠文堂新光社刊)を昨日図書館で借用して読んだところ,ラッセルの記述は,間違い(記憶違い)ではないらしいことがわかった。同書 p.25最後の行〜,以下引用する。「・・・。そして,1876年に彼女が社交界に出てからは,ロンドンの社交シーズンに参加することによって進められたのである。というのは,1870年代の頃には,ベアトリス・ポッターの階級の娘たちにとって,ロンドンの社交シーズンやそれに付随した田舎の別荘の訪問などは,実に男の兄弟たちの大学教育にも匹敵するものであった。両親が娘達の舞踏会や宮廷での拝謁のためにお金をかけるのは,ちょうど息子の授業料や小遣銭に費やすのと同じようなもので,上流階級社会の生活に合うように訓育し,適当な生活費を得ることができるだけの備え−−息子の場合には専門職を,娘の場合には夫−−をつけてやるためであった。」 即ち,本格的に社交界にデビューしたのは,1876年(ベアトリス18歳)だとしても,1874年後半には,ポッター婦人会に顔を出し始めたということは十分ありうることと思われる。)
 しかしながら,母の手紙−たとえば,実証主義者のヘンリー・クロムプトンヘの手紙をみて,母が時に応じてとても陽気で,なまめかしくもあったことを知った。だから,母が世間に向けていた顔というのは,自分の日記に示していたほど,そうびっくりするほどのこともなかったように思われる。
 は自由思想家であった。そうして,『宗教的信仰の分析』という大著を書き上げた−これは死後に出版された。父の蔵書はたいへんなもので,その中には,キリスト教初期の教父たちに関するものや,仏教に関する著述や,儒教についての話等々があった。父は相当多くの時間を田舎で著述の準備に費やしていた。しかしながら,父と母は,結婚の当初数年間は,毎年数ヶ月間ロンドンで幕らした。ロンドンのディーンズ・ヤードに家があった。私の母と母の妹ジョージ・ハワード夫人(後のレディ・カーライル)は,それぞれよく上流社会の社交の集いを催して競いあっていた。ハワード夫人のサロンには,ラファエル前派の画伯たちが全員集まることになっていたし,私の母の方へは,ジョン・スチュアート・ミル以後の英国の哲学者全員が集まることになっていた。1867年,両親はアメリカヘ行った。そこでボストンのあらゆる急進派の人々と親交を結んだ。けれども両親は,自分たちが賞賛している民主主義に熱心であり,自分たちが賛美しているところの奴隷制度反対の運動を展開して勝利をおさめた人たちが,実はサッコやヴァンゼッティを殺害した人たちの祖父母であるということを予知し得なかった。
 両親は1864年に,両方ともわずか22歳で結婚した。(ラッセルの初婚も22歳であることに注意) わたくしの兄が生まれたのが,彼が自叙伝で自慢しているように,両親の結婚後9ヶ月と4日目であった。わたくしが生まれるほんの少し前,両親は,ワイ川のきりたった岸のちょうど真上の森の中の人里離れたところにあるラヴェンスクロフト(右写真)と呼ばれたきわめて淋しい家(現在はクレイドン・ホール Cleddon Hall と呼ばれている ← Wales の地名なので一般的な英語ではない。)に行って住んだ。(参考:... The small hamlet of Cleddon lies at the top of the walk and it was in Cleddon Hall that Bertrand Russell was born ...
 私が生まれて3日目に母は,そこの家から自分の母にあてて,私のことについて手紙を書いた。
「このベビーは,体重8ポンド3/4,身長21インチ。ころころ肥っていて,それにたいへん器量の悪い子です。誰もがそう思うのですが,とてもよくフランクに似ています。眼が青く,眼と眼の間がとても離れています。あごはあまり出ていません。乳の吸い方などはフランクとちょうど同じです。いまは乳は十分です。けれども,欲しい時にすぐに乳をやらなかったり,胃や腸にガスがたまったり,何かあると,とてもあばれるんです。そうして,完全になだけて落ち着かせるまで,きゃあきゃあ声をはりあげ,足でけ飛ばし,からだを震動させてとてもたいへんです。頭をもたげては,とても元気いっぱいにあたりを見まわします。

My mother used to address meetings in favour of votes for women, and I found one passage in her diary where she speaks of the Potter Sisterhood, which included Mrs Sidney Webb and Lady Courtenay, as social butterflies. Having in later years come to know Mrs Sidney Webb well, I conceived a considerable respect for my mother's seriousness when I remembered that to her Mrs Webb seemed frivolous. From my mother's letters, however, for example to Henry Crompton, the Positivist, I find that she was on occasion sprightly and coquettish, so that perhaps the face she turned to the world was less alarming than that which she presented to her diary.
My father was a free-thinker, and wrote a large book, posthumously published, called An Analysis of Religious Belief. He had a large library containing the Fathers, works on Buddhism, accounts of Confucianism, and so on. He spent a great deal of time in the country in the preparation of his book. He and my mother, however, in the earlier years of their marriage, spent some months of each year in London, where they had a house in Dean's Yard. My mother and her sister, Mrs George Howard (aftawards Lady Carlisle), had rival salons. At Mrs Howard's salon were to be seen all the Pre-Raphaelite painters, and at my mother's all the British philosophers from Mill downwards.
In 1867 my parents went to America, where they made friends with all the Radicals of Boston. They could not foresee that the men and women whose democratic ardour they applauded and whose triumphant opposition to slavery they admired were the grandfathers and grandmothers of those who murdered Sacco and Vanzetti. My parents married in 1864, when they were both only twenty-two. My brother, as he boasts in his autobiography, was nine months and four days after the wedding. Shortly before I was born, they went to live in a very lonely house called Ravenscroft (now called 'Cleiddon Hall') in a wood just above the steep banks of the Wye. From the house, three days after I was born, my mother wrote a description of me to her mother:
'The baby weighed 8+3/4 lb. is 21 inches long and very fat and very ugly very like Frank everyone thinks, blue eyes far apart and not much chin. He is just like Frank was about nursing. I have lots of milk now, but if he does not get it at once or has wind or anything he gets into such a rage and screams and kicks and trembles till he is soothed off. He lifits his head up and looks about in a very energetic way.
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