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(ラッセル追悼)吉田夏彦「バートランド・ラッセルについて」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第15号(1970年5月)pp.16-17
* 吉田夏彦氏(1928-2020)は当時、東京工業大学教授。現在は、大正大学教授で、東工大名誉教授。父親は、数学者の(故)吉田洋一氏
* 吉田洋一「ラッセルのこと」


吉田夏彦の肖像写真  ラッセルは、はじめ、明快な思想家として私をひきつけた。特に、Our Knowledge of the External World, 1914 は、若い頃接したほかの哲学者、たとえば、カントの著作にくらべれば、はるかにわかりやすく書かれているように思え、楽しんでよんだものである。いうまでもなく、「哲学の著作も、学問の著作であるかぎり、わかりやすく書くべきものである」というのが、私の信念である。難解ということや、はぎれの悪さということは、時に同情して許すべきことがらとなる。しかし、決して、誇の種とすべきことがらではない。
 だから、ラッセルの論敵の一人だったベルクソンも、かつての私にとっては、気に入りの著者だった。デカルトは、一見わかりやすさをよそおっているが、少くとも現代人からみれば、飛躍の多い論証で'こと'をはこんでいる点で、かならずしもわかりやすい著者ではない。彼を明晰な著者という人は、感覚がよほど昔風な人か、さもなければ、偽善者であろうと思われた。
 同じラッセルのものでも、『数理哲学序説』となると、もはや現代人一般にとってわかりやすいものとはいえないだろう。たとえば、「ペアノの公理だけでは自然数の全体を性格づけるのには不十分で、集合概念により基数を定義づけることにより、始めて自然数とは何かがはっきりしたことになる」とする、彼の主張は「しかし、集合もまた、公理的に与えるほかはないものではないか」という、ごく素直にわいてくる疑問に対し、十分な答を用意していない。事実、彼は、集合についての自分の考えがすっきりしていないことを、同じ本の中で、正直にのべている。
 さらに、哲学上の著作でも、いくつか読んで行くと、決して明快とはいえない叙述にぶつかることがある(し)、あるいは、くり返しが多くて冗長な感じがすることがある。その上、同じことを方々の本で書いているのをみて、うんざりすることがある。これは、もっぱら口述によるという、例の執筆態度とも関係があることかも知れない。座談で何度か同じ話をきくことは、話し手がうまければ、必ずしも退屈なことばかりとはいえないが、叙述体の本の場合には、何べんも同じことを同じ著者からよまされるのは、あまりうれしいことではない。

ラッセル協会会報_第15号
 こんなわけで、一時、私は、ラッセルには、少しあきていたのである。特に、ラッセル崇拝が一種の流行になり出した時が、あきかかっていた時に一致したので、彼の本が、原書でも翻訳でも、本屋に沢山出ている時に、かえって彼のものを読まないことが、しばらくつづいたのである。しかし、論理と哲学との関係について、自分なりに、考え方がある程度まとまってきだしてから、もう一度ラッセルをふりかえることをしてみたら、かつて考えていたのとはちがった意味で、彼の偉さが感ぜられるようになってきた。すなわち、ラッセルは、明快に、わり切ってものをいっている時には、偏見にさからい、正直にものをみている点で、たしかに痛快な発言をしているが、こういう発言は、ある大胆ささえあれば、誰にでもできるものである。しかし、むしろ、彼が、明快さを欠き、ああでもない、こうでもない、とまよいながら、苦心してものをいっている時、非常に重要な問題がとりあげられていることが多い。そういう問題の中には、今日なお、我々をなやましているものも、かなりあるように思われる。そうして、そういう問題を論ずる時、彼が好んで論理学の結果をつかったのは、鬼面人をおどかすためでもなく、問題を不当に形式化して料理しやすくするためでもなく、問題にみちびかれて、ほとんど必然的にそうしたのである。そのへんのことをよくみきわめず、自分の論理学の不勉強を棚にあげて、ラッセル批判を簡単にやっている日常言語学派に対し、ラッセルが晩年冷淡だったのは、うなずけることである。ただ、彼の著作に、このような批判のあたる、浅薄な部分も多いことは、さきにのべたところからもいえることである。
 「けいけんな無神論者」としてのラッセルにも、私は魅力を感ずることがある。しかし、そういう彼、あるいは、平和運動家、自由恋愛家としての彼だけを、賞賛や非難の対象と考えることは、結局、彼を、ブラウン管の上の英雄達の一人にしてしまうことになろう。むしろ、心ならずも彼が不明快な著者としてあらわれている文脈の中に、今日的な問題をみいだし、これにより明快な叙述をあたえることが、彼を哲学者として生かす道であろう。(了)