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山本実彦「バートランド・ラッセルの来朝」

出典:『(山本実彦)小閑集』(改造社 1934)所収

* 昭和9年頃執筆/再録:『出版人の遺文・山本実彦』(栗田出版,1968年),pp.55-62.

 社会運動の華やかなりし日。

 バートランド・ラッセルのあのたぎりきったまなざしが,いま,私の目の前に現われてくるとき,そうした思いをさせるのであった。あの時代こそ,社会運動の一ばん華やかなときであったのだ。彼は,そのうしおに乗って我が国へやってきたのであった。

 大正十年一月,彼が我が『改造』に寄せた「愛国心の功過」及びつぎつぎに発表した論文は,我が国の論壇をひっくりかえすほどの騒ぎをさせたのであった(松下注:「愛国心の功過」は,ラッセルが『改造』に寄稿した最初の論文で,『改造』1921年1月号に掲載された。/検閲のため,ところどころ抹消あり。他の論文には原文がつけられているが,これだけはなし。Russell Archives 館長であった Kenneth Blackwell 博士からも2度問い合わせがあったが,改造社は戦後まもなく解散したため,ラッセルの原稿がどうなったか不明/2007年4月28日追記:最近,当時の文学者が「改造」に寄稿した原稿が大量に発見されたとの新聞報道があった。/2009.1.6 追記:まだ未調査であるが,雑誌『改造』に寄稿された原稿を所蔵している鹿児島の「川内まごころ文学館」で所蔵しているかも知れない。)。彼は愛国心が近代人を動かす力は,宗教が前世紀の人を動かした以上であることを,劈頭に説いて,社会主義と,愛国心との争闘を叙し,愛国心の倫理学上の理論としての価値,今日の世界における愛国心の実際的結果等につき鋭く解剖したので,賛否の論は,新聞の社説において,あらゆる会合,演説会において,囂々(ごうごう)たるものであった。

 彼の所説は,我が日本で検討の中心となったばかりでなく,支那全土の思想界を風靡し,支那の新思想家は,彼を救世主,救国主のようにしたしみ,尊敬したのであった。その後約二ヵ年間,精鋭な彼の所論は,『改造』に連載されたのであったが,我が国の思想界はこの間,まったく彼を中心とした動きであった。

 彼はその当時,北京にあった。そして,支那思想界の中心であった北京大学で,ソ連の政治,経済諸機構及び一般社会思想にたいしての講義をしておったのを,米国の哲学者デュウィ氏(John Dewey)とともに我が社が招待したので,この両氏は,前後して我が国に来朝したのであった。ラッセル氏は,認識論において新実在論の代表的なものであり,デュウィ氏は,実用主義を主張して,全く反対の立場にあったのであった。そして前者は,なかなかはでな戦闘ぶりを示していたが,後者は,ごく地味な道をたどっておった。

 ラッセル氏は,大正十年七月,神戸についた。ブラック夫人及ぴパワー嬢と一しょだったが,その日,神戸埠頭には,労働組合旗が幾十となく,ひるがえっておった。何でも,神戸,大阪附近一帯の労働組合員五万は,諏訪山かどこかに集合して一斉に氏を迎えるつもりで,それぞれ手筈をきめたのであったが,それは,当局の許すところとならなかった。それほど人気があったのだから,各地における青年,知識階級の憧憬はたいしたものだった。

 京都では,我が社が西田博士をはじめ,二十七名の大学教授等を'みやこホテル'に招待して,ラッセル氏との学的交換をやってもらった。だいたい,ラッセル氏は,数理哲学が専門であったのだったが,世界大戦の開始さるる当時,非戦論を唱えたがため,六ヵ月の懲役にブチこまれたので,それより以来,社会思想家として一世を風靡したのであった。その夜は,もちろん,哲学上の意見についての話が主であったが,このほど死んだ土田杏村君は,ロシア過激派の問題について,一時間あまりも質問しておったのを記憶している。

 東京でも二十数名の学者,思想家と'帝国ホテル'及びその他で会見した。ただ,ホテルで逢ったとき,大杉君,堺君及び石川三四郎君等の思想家がおったので,少々もめたことを記憶している。もめたといっても,会見のとき,議論でもめたのではなくて,当局者があまりにたくさんの警官を派遣して,会場の内外を圧迫的に警戒したがため,思想家が憤激したのであった。当時のことを思えば,恍としてもう夢のようであるが,我が社は,その当時から,社会運動の域内にはすこしでもはいって行くこと厳禁していたので,その会合も,ただ普通の談話会であり,それにロシアの諸機構も観察した権威者というので,そうしたことについて,新しい話をきくだけの会合であったのである。

 彼は,北京で大病を患った。我が国には,一時,彼の死が伝えられて,諸新聞には,肖像入りで大々的に,彼の功罪について論ぜられたものだった。彼が日本に上陸早々,自分はもう死んだのだよ,と皮肉を新聞記者にあびせかけたのも記憶している。彼はアインシュタインのようにまるみのある人物ではなかった。圭角稜々として,さわらば斬るぞの気概ある人であった。その顔はやせて面長で,鼻はあくまでも高く三角形で,眼はらんらんともえておった。妥協性のない鋭いものばかりをもった人で,英国貴族としての典型的特長を持った人であったが,なれてくると,奥底までブチ割る人で,外国人としては珍しい型だった。上品な言葉づかいであったが,激すればずいぶんひどい言動をなした。彼の祖父は宰相であった。それがために,彼の家は伯爵家でもあった。彼が横浜で,写真をとるとき,「自分らは,たいへんな病人ばかりだから,マグネシュームをたかないでくれと,言ったにかかわらず,二十人ぐらいの写真班が,それをきかないでバンバンやるので,マグネシュームのために,彼はとても気分が悪くなって,'You Beast!' と叫びつつ,ステッキで写真班をなぐりつけたことがあった。そのとき,警察にたいしての不平や,なにかも嵩じていた際で,まったく気の毒な事情のもとにあったが,あまりに大人げないことではあった。(注:この時,ドーラは妊娠しており,ラッセルは流産を心配してこのような行動をとったものと思われる。もちろんステッキで実際になぐったわけではなく,なぐろうとしたのであるが・・・。)

 彼は,はじめ我が国で講演もやる気できた。ところが,その衰弱さがたいへんで,とうてい演壇に立つことを許さない健康状態にあったので,私にたいしては,まことに申し訳がないが,どうか許してくれとのことだった。しかし,彼は,日本を去ろうとする三,四日前,突然,私に,「いろいろお世話になった。それについては,ぜひ一回なりとも講演をやって貴意に副いたい」と,熱誠をこめて言うのであった。それで,慶応義塾で七月二十九日「文明の再建」なる題下に画期的の大講演をやったのであった。

 彼は,演壇にのぼる前,「私は病中であるから,三,四十分を限度としたい,そして特に演説中,椅子にかける了解をしてくれ」とのことだったので,私は予め,司会者として,そのことを聴衆にはかったのであった。
 犬養,尾崎氏等の憲政擁護のときの演説会よりもっと盛んであったといわるる,多人数の聴衆を前に見,彼は感激の絶頂に達して,自分が病であることをも打ち忘れて,一時間あまり,突っ立ったまま,息をもつかず,滔々と一大演説をオッぱじめた。そのときは眼からは,まったく火が出るようで,熱烈そのものであった。演説がしまったとき,カーキ色の洋服は,しぼるように汗がいっぱいであった。そのとき三千の聴衆のあの怒濤のような拍手は,全く黎明日本を表徴するもののように,感激の深いものであった。

 その日の演説は,彼の生涯中でも一,二に位する上出来のもので,彼に同感を持たないものまで,賞讃していた。それは千九百十四年の大戦で文明の相互的自殺をやった,そののちに新しい経済組織のもとに,新しい生き方をするについて,工業主義(産業主義)はどういう地位におるか,そうしたことを経済的に,倫理的に説いたものであった。彼は,経済的・政治的観察も鋭いのであるが,その底に,哲学的・基礎的の深い見方が伴うので,走馬燈のごとくかわって行く我が思想界に一ばん長い生命があったわけだ。彼は,我が国でたくさんの社会思想家とも逢ったのであったが,そのときまでは,我が国のいろいろの運動に組織のないこと,統制と拘束力の乏しいことを感じると,いったようであった。

 彼は,我が国にくる前に,我が国の思想界の一通りのことは腹にいれて来朝した。すなわち,『改造』なども,彼は,約一ヵ年間分を,創作といわず,論文といわず,すべて北京大学生に,翻訳させて,それを一読したというのであるから,用意の周到さに驚かされたのであった。彼は米国の『ネーション』誌の特別寄稿家であったのであったが,『ネーション』に書くのには骨はおれないが,『改造』にかくには精いっぱいの努力を払っているとも,話しておった。そして,一般的雑誌でこれほど高級なものは,世界に二つとない,と語ったこともあった。

 その前後から,我が『改造』に,世界的の政治家も学者も,社会運動家も執筆してもらったが,彼の論文ほど,我が読者界のコツをのみこんでかいたものは二つとなかった。そして,あれほど情熱を傾けた名篇も,あまり見られなくなった。

 彼と別れてから,もう十四年にもなるのだが(注:この文章は1935年頃執筆?),彼の印象は,私からなんらうすれて行かないのみならず,その目の強さ,顔の輪郭が,日の立つにつれてかえって私にせまってくるものがある。まったく不思議なことである。(終)