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(巻頭言)東宮隆「ラッセルと文学者」
『ラッセル協会会報』n.8(1967年7月),p.1.

* 筆者は当時,東工大教授,ラッセル協会理事


 ラッセルの著書には,シェークスピアをはじめ,イギリス文学の古典の引用がかなり出てくる。ラッセルは,若いころ一時ミルトンに傾倒し,ペーターの文体を模倣しようとしたこともあった。尤も,文体については,やがてペーターを去って簡潔を旨とするようになる。また,これは文学と直接関係はないが,歴史のあつかいかたの上で,ギボンなどが好きだったようである。公平な歴史家は,ラッセルにとっては,たいくつであった。さらに,詩人については,ワーズワースが,若いときは「いい」詩人であったのに,晩年は「わるい」詩人になったと云っている。
 ラッセルと文学者との実際のつきあいは,どうであったであろうか。1956年に出た『思い出の人たち』(Portraits from Memory and Other Essays/みすず書房版邦訳書名『自伝的回想』)には,D.H.ロレンス(1885-1930)と J.コンラッド(1857-1924)の肖像が描かれている。ロレンスは文学者の中でも特に個性のきわだって強い人である。ラッセルは,どの著書の中であったか,ロレンスのエネルギーの強さの誇示が実はかれの肉体的な弱さの裏返しだと,フロイト流の解釈を施しているが,この『思い出の人たち』では,デモクラシーをあたまから否定するロレンスの幾回かの手紙のために,ラッセルが動揺し,一時「自分にない洞察力」をロレンスが持っているような気がして,ついに「二十四時間のあいだ,自分など生きる資格のない人間だと考え,真剣に自殺を考えた」という話が載っている。しかし,けっきょく,この「病的な気持」から立直り,ラッセルは,「健全な考えに戻る」のである。
 ロレンスと同時代の一群の文学者の反社会性については,H.ラスキも C.P.スノーも早くから指摘しているところである。ラッセルとロレンスとの疎隔(そかく)も,スノーの云い分のように,文学者と,社会科学者ないし自然科学者とのあいだの,「切れ目」の一端を示すもののようである。とにかく,哲学的社会科学者と文学者の出あいは,はでな喧嘩わかれに終ってしまった。
 コンラッドの場合はどうであろうか。はじめ,コンラッドを紹介する人があって,ラッセルは会う気になるのだが,最後は,道で誰かと立話をしているコンラッドの姿を見かけながら,遠慮から声もかけずに通りすぎ,その後まもなくコンラッドの訃をきいて,さきの躊躇を後悔している。(松下注:ラッセルはコンラッドと手紙のやりとりを何回かしている。『ラッセル自叙伝』参照)
 コンラッドはひところ海洋小説家と呼ばれ,わが国でも大正年間にかなり読まれたが,その後はどちらかと言えば忘れられかけていた作家である。「コンラッドは忘れられかけているのではないかとおもうが,しかし,かれの激しい熱情的な気品は,わたしの思い出のなかに,泉の底から見た一つの星のようにかがやいている。わたしはかれの放つ光がわたしにかがやいたように,ほかの人たちにもかがやくようにできたらばとおもう。」 これが,ラッセルの『思い出の人たち』のコンラッドについての結びの言葉である。 
 1957年の(生誕)百年祭を契機としたかのように,コンラッドは復活した。ラッセルは,コンラッドの『闇の奥』に,かれの人生哲学が一ばんよく表現されているとして,この中篇小説を賞揚しているが,こんにち世評が注目しているコンラッドの作品の一つもまた,『闇の奥』である。ある意味でたがいにストレンジャーであったラッセルとコンラッドが,ラッセルの言葉をかりれば,「人間生活と人間の運命についての或る見方」の上で,めずらしいほど一致した。コンラッドには,一方に,個人の魂が,きびしい自然や人間の敵意と対決したときの孤独のおそろしさに堪えてゆくところがあると同時に,他方には,因襲にとざされた弱い人間を見守る暗いペシミストさながらの面がある。前者の一面にこそ,コンラッドの本領があると,ラッセルは考えているようである。