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谷川徹三「ラッセル追悼」
『ラッセル協会会報』n.14(1970年3月)pp.1-2.

 *谷川徹三氏は当時、ラッセル協会(2代目)会長



The Good Citizen's Alphabet のイラスト画像  私は今「タイムズ」の(1970年)2月4日号を前にして、さまざまな感慨の去来に身を任せている。この「タイムズ」の2月4日号は、ラッセルの死に対して社説や長文のオビチュアリーで、この偉大な人の思想と行動とを改めて振り返ってその意義を顕彰すると共に、国内国外の声をも巾広く伝えている。その国外からの声の中に、ニューヨークやパリやローマやモスクワ、ベルグラード(ベオグラード)、ストックホルム、ベイルート、メルボルン、サイゴン、ハノイなどと共にトーキョウからの声を伝え、そこに湯川秀樹博士と私との名をあげているというので、友人が送って来てくれたものである。
 その個人の、また公私の機関や新聞の伝えた声の中で、私は特に World Jewish Congressヴァチカンの新聞 L' Osservatore Romano の声に心をひかれた。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)
 前者は言う。
「彼は高貴な心情と明晰な知性とがその中で一つになった人類への熱愛をもち、そこにあらゆる時代に亘っての最も偉大なヒューマニテリアンの一人を出現させたのだ。ユダヤの人々は常に愛と感謝の念とをもって彼を想起するだろう。」
 そして後者は言う。
「われわれの考えがどうあろうと、人間の威厳を護持するための彼の余すところない努力の前に叩頭するのはわれわれの義務である。彼はおだやかだが恐るべき、気ぜわしいが確固としたプロテスターであった。彼に比すれば今日の若いプロテスターたちは蒼白い亡霊に過ぎない。」
プラス・ペンリン山荘の庭からポートマドック方面を眺めた写真画像  その死の前後を報じた記事によると、彼はウェールズのプラス・ペンライン(Plas Penrhyn:プラス・ペンリン?)のけわしい山と海との間の丘の家の、その最も愛した室で、書物や未完成の著作に囲まれて死んだ。それは生前静かな夕暮のひと時を、数えきれぬほどたびたび沈む夕陽を見て過した室で、彼はよく訪問客をそこのヴェランダに連れて行って、入江のかなたに沈むその夕陽の光景を自慢して見せたものだという。(右写真:(故)牧野力教授のアルバムから(1972.08.11に同行者撮影))
 最後の最後まで彼は勤勉に仕事をした。夥しい手紙の類が彼の許に流れ入り流れ出た。ウィークエンドの直前に(ラッセルは月曜日の夜なくなったので、ウィークエンドと言えば、死の前々日になるわけだが)、彼はカイロの会議に送る、中東紛争に関するステートメントを完成した(参考) 。そして彼はウ・タント国連事務総長その他との、ヴィエトナム問題についての長期にわたる往復書簡にとりかかっていた。それに全世界にわたる政治犯たちのための(政治犯を救うための)不断の斗争もあった。
 日曜の夜はいつものように、彼は愛用のウイスキーのグラスを傾けながらくつろいでいた。そのあと彼はその室に入ったのである。この彼が沈む夕陽を見るのを好んだ入江の向うには白い小邸宅があって、そこにかつて詩人シェレー(Shelly シェリー)が住んだことがあった。ラッセルはシェレーが好きで、その「西洋哲学史」の中にまで思いがけぬ場所でシェレーの詩句を引用しているから、彼がそこの景色を愛したには、そのせいもあったろう。
 彼の死を悼む声の中に、彼をヴォルテールにたえている(比べている)人が2人まであったのも私の注意を引いた。私も一新聞に語った彼への追悼の言葉の中で彼をヴォルテールにたえたからである。タイムズにおけるその1人はイギリス首相ウィルソンであり、もう一人はインド首相ガンディー夫人であった。

 ウィルソン(英国首相)は言う。
「バートランド・ラッセルはまさしくイギリスのヴォルテールと呼ばれて然るぺきである。そしてヴォルテール同様、彼の座談は彼の書くものに比してさえ、一層ブリリアントであった。彼の晩年の諸活動については、相反する意見が死後も長く続くだろう。しかし一層長い目で見れば、彼が科学思想を押し進め文明の理想を押し進めたことに対して、一致した賛美の声が、彼の同国人のみならず、遙かに広汎な世界の人々から引続き寄せられるであろう。……」
 ガンディー夫人(インド首相)は言う。
「ラッセルは史上最大の哲学者で且つ権威に対する反逆者の一人であった。ヴォルテールのように彼はあらゆる形の偽善をあばき攻撃し、新しいエスタブリッシュメントを創り出そうと努めた。・・・・・・。その長い一生を通じて彼は、学者たるものは自分をとりまく生活に関心をもたねばならぬことを身をもって示した。彼はインド独立の友であり、平和の斗士であった。」
 この二人が彼をヴォルテールにたぐえたのには、この短い言葉に示されている以上の含みがあったであろう。それを思いながら私は自分が彼をヴォルテールにたぐえたことを改めてかえりみた。ヴォルテールが哲学、科学、文学、歴史の諸分野で広汎な活動をし、特に風刺的な寓意小説や哲学的エセーによる啓蒙運動によって、当時のヨーロッパに深い影響を及ぼし、「ヴォルテールの時代」と呼ばれているような一時代をつくったことはその理由の一つである。一つの普遍的真理に固執してそれによってすべてを律しようとする態度を排し、そこから常に寛容を説き、宗教的偏見、なかんずくカトリック的狂信の犠牲になった無名の人々のために身を挺して戦った、そこに一箇文筆の士にとどまらぬ行動力を示したこともその理由の一つである。共に理性の人として、科学的認識をヒューマニズムの倫理によって現実の社会に結びつけようとするその基本姿勢において2人は相通じ、しかもその信念を貫くに当っては、何ものをも恐れず、いかなる権威にもいかなる権力にも屈しなかったのだ。
 しかしもう1つある。2人はきびしい protester であり、はげしい rebel ではあったけれど、革命家ではなく、改革者であったということである。これはフランス革命とその後の世界に対するヴォルテールの影響をルソーのそれと比較して、核時代という今日の時代におけるラッセルの形姿に思い及ぶ時、自然に落ちつくところの考えである。(了)