バートランド・ラッセルのポータルサイト


谷川徹三「笠さんの思い出」
『ラッセル協会会報』n.10(1968年4月)pp.1-2.

* n.10(1968年4月刊)は、笠信太郎追悼号
* 谷川徹三氏(1895〜1989:哲学者、法政大総長を務める)は1968年当時、日本バートランド・ラッセル協会第2代会長
* 笠信太郎氏(1900〜1967: 朝日新聞顧問、論説主幹歴任、ラッセル協会初代会長)は、1967年12月4日、心臓病のため、茅ヶ崎の自宅で亡くなられた。笠氏は太平洋戦争末期、朝日新聞欧州特派員として、日米和平交渉の仲介役として大きな役割を果たされた。その模様は、1992年2月29日、テレビ西日本放送において、(ドキュメンタリー)スイスから祖国見つめて−笠信太郎氏らの日米和平工作−」というタイトルで放映されている。(松下)


 笠さんの思いがけない死を私も多くの人たちと共に歎く一人だが、その思いがけない死を、偶然その直後に知ったことも何かの因縁だったかも知れない。
 笠さんと私とに共通な友人が、時々数人の、ふだんはほとんど会うことのない仲間を招いてくれることがあり、ここ十数年来というもの、そこで私は笠さんと会うことが最も多かったのであるが、久しぶりにその歓談の会をしようと、その友人が私に日取りの都合訊いて来たのが、(1967年)十二月四日の朝である。それでは笠さんの都合を訊いて見ましょうと電話を切ったと思うと(→電話を切り)、直ぐ折返し、茅ヶ崎のお宅へ電話したところ、たった今亡くなられたということですと言う。全く驚いた。
 ところがその直後また国許から電話で、兄が十二指腸潰瘍穿孔で入院したとの知らせがあり、それから数日の間に東京と郷里との間を三度私は往復した。笠さんの葬儀の八日は、丁度兄の葬儀のために郷里へ発った日であった。
 いま日記によってこんなことを記しながら、いろいろなことを私は思いだしている。

 笠さんが、朝日新聞の論説主幹の頃、何年かにわたって、新年の社説に世界連邦問題を扱ったこと、その最初の時であったか、はっきり日本は世界連邦政府の樹立を国是とすることを内外に向って宣言せよとまで主張したことなど。−これは社説としては随分思い切った社説で、われわれ世界連邦論者は大いにこれを徳としたものの、社の内部はあれでよかったのかと内々心配していた。しばらく経って笠さんに会った時それをいうと、社の幹部連も別に何とも言わなかったからいいんでしょう、とすましていた。しかし一見思い切った社説に見えながら、日本国憲法にそれを基づけて言っているところ、いつも地を離れた論をしない笠さんの面目がやはりよく示されていたものであった。
 一九六三年、世界連邦大会があった時にも、笠さんは、その日本国憲法を踏まえて世界連邦へのアプローチを語った。私も笠さんや湯川(秀樹)さんと供に、その大会に出席し、三つの大会議題の一つについて基調講演をした関係もあって、その大会の宣言としての東京宣言の文章に、笠さんと二人で随分遅くまでかかって手を入れる仕事をした。これも今はなつかしい思い出になっている。
 最近の笠さんのもので感心を受けたものに、去年(1967年)十月九日から三回続きで朝日に出た「沖縄問題を憂う」がある。これは日記の中に切抜きがはさんであったので、今回改めて再読したが、現在の沖縄の情勢の中で一層の切実性をもって訴えるものがある。
 笠さんは去年一月、総選挙で遊説中の佐藤首相が大津の記者会見で、「沖縄は教育権の回復よりは一括施政権の返還が望ましい」と言った頃から、すでに核基地つき返還について日米間には何らかのルートで話が進められていたのではないかと考える。これは当時の下田外務次官の提案その他によって推測したものだが、そうなった場合を仮定すると、その結果は日本の軍事的ステータスを全く一変することになる。日本本土が沖縄化するのである。
 現在までの沖縄基地は、それがアメリカ施政政権下にあることで、中国もソ連も日本の責任をうんぬんすることはなかった。しかし今度はちがう。機会あるごとに日本にその矛先を向けて来るだろう。それに伴って、国内の左右抗争が激化する。そして自分自身に核兵器をもたぬ日本は、何かの動きのあるごとに、アメリカにすがりつかねばならぬという新しい状況がつくられる。
 こういう、日本にとって誠に憂うべき事態が生ずるわけだが、一度立場を変えて、アメリカの立場に立って考えて見るとどうか。アメリカのタカ派の眼で見ると、これはまたとないチャンスである。「基地の軍事的機能を著しく変更しないで施政権を日本に返還することができれば、それによって初めて日本をアメリカのアジア政策の傘の中に完全に取込むことができる」沖縄基地は韓、比、台その他SEATOとアンザスという二つの条約諸国をアメリカと結ぶ実質上の拠点であり、カナメである。今その基地が日本領土にはいり込むことになると、日本はその大きな傘の柄の下に立つことになり、いきおい、これらの国と軍事的に無縁ではすまされないことになる。これはアメリカの極東政策の環が完結することを意味する。
 笠さんはここでも、米軍の自由使用の法的根拠となっている信託統治(平和条約第三条)が、その基地使用の長くなっている今日、果して国連憲章の条理にかなっているかどうかを改めて問うべき段階であり、それがまた本筋だという、実際に則して極めて時宜に適した提案をしているが、ここはそういうことまでくわしくいう場所ではないから私はそれを差控える。しかし笠さんは、どんなに世論が沖縄返還を求めても、核つき返還を甘んじて受けるような愚をあえてしてはならないと政府にも国民にも訴えているので、それは今日の緊迫した情勢の中で一層切実なひびきをもっている。
 そういう笠さんと共に、私は笠さんのもう一つの面にも触れている。笠さんの一橋(大学)における同窓・辻雙明氏の主宰する不二禅堂に笠さんが並々ならず肩を入れていることである。これは辻さんの人柄もあって、辻さんへの友情からであろうが、それだけではない。笠さんは宗教というものに大きな関心をもっていたので、殊に禅のような哲学的宗教には相当の魅力を感じていたらしい。美術に対しても鑑識眼をもち、殊に書についてはなかなか造詣が深かった。私は笠さんから墨で書いた手紙をもらったこともあるが、達筆で、その書風は宮島詠士、緒方竹虎を思わせるものがあった。緒方さんは宮島詠士の書に心酔していたし、その緒方さんと笠さんの縁には深いものがあったのだから、これは不思議でない。