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田中睦夫「ラッセルとモーム」
『ラッセル協会会報』n.2(1965年9月)p.11-12.


 モーム(W. Somerset Maugham, 1874.01.25-1965.12.16)には多くの友人知己がいるが,中にH.G.ウェルズを数えることが出来る。H.G.ウェルズは純粋の小説家と言うよりは,むしろ社会思想家と言う方が適当であり,その小説は社会に関する自分の思想を発表する道具に用いたと言えるであろう。それはともかくとして,ウェルズの友人にバートランド・ラッセルがいた。ウェルズはモームをラッセルに紹介し,ロンドンのレストランで昼食を共にすることが二,三回あった(モームの直話による)。
 モームはラッセルを非常に尊敬している。ラッセルのことを百年に一人しか出ないような哲学者であるとほめているし,モームの講演(1951年10月24日)の中でもラッセルの「西洋哲学史」がすばらしい書物であることをほめたたえている。

 それより前,モームの名著『要約』(The Summing Up, 1938年)の中でもラッセルによって人生の指針を求めようと考えたとも書いている。ラッセルはあれだけの大哲人であり,その深遠な哲理を述べるに当たって,誠に平明な立派な英語を用いていることもほめ賛えている。(『西洋哲学史』は全く小説のように興味深い読物であるので,私の愛読の書の一つであることを付け加えておきたい。)
 さてラッセルとモームはある意味で,快楽主義者だと思う。試みに彼らの「楽しみ」についての論を見ると,はっきりとそれがわかるのである。日本では最近(=1965年執筆)「根性」ということが唱えられている。根性を鍛えるのに「しごき」というような厭な言葉も用いられているらしいが,あれは一つのサジズム的行為を正当化しようとする詭弁である。
 世に苦労人という言葉があり,苦労人は他人に対し情けあり,理解あり,頼りになる人であるかのように解されるけれども,ラッセルとモームにとって果たしてどうであろうか? モームのよく言う言葉だが,苦痛は人間の心を少しも高めるものではないむしろ人間の心をゆがませ,ねじけさせるのである。ラッセルに言わせると,人間は幸福であれば自然と善良になるのであって,善行を積めば幸福になるということにはならない
 善行のために悪戦苦闘し,その結果幸福が来るということにはならないようだ。そう言えば大臣とか,その他いわゆる偉い人たちの人相を見ると,極悪人の人相に何と近いことかと感じ,試みに我が顔を鏡に映して落胆することがある。 風雪を越えて来た厳しい顔に美しさを発見する人がいるらしいが,幸福の相を果たしてそこに見出すであろうか?
 満ち足りた人間の幸福を題材としたモームの幾つかの短篇の中には善良な人間の魂が脈打っている。
 またモームは人間の悦びを堂々と唱え,人間に本来楽しむべく与えられたこの悦楽を楽しんで何が悪いかという意味の重大な短編「裁きの座」というものを書いている。
 ラッセルも悦楽(pleasure)は本質的に何も悪いものではないと強調する。
 勿論悦楽と言えば一般に肉欲的なものを連想し勝ちであるが,本来人生に悦楽がなければ何のために生きて行くのか不可解である。折角与えられた悦楽を故意にしりぞけて,艱難の道をひたすらに追求する求道僧の生活が果たして人間本来の生活であろうか? ラッセルは「変転する世界の新しい展望」(New Hopes for a Changing World, 1951)と題する書物の中で,快楽を無理にしりぞける修道僧の心底に潜む憎悪に就いて詳しく述べている。モームはラッセルの哲学書を読むことによって何らか人生の指針をつかもうと努力した。モームの名著「作家の手帖」で1941年にしるした文句に次のようなものがある。

「私はラッセルの『外界に対する我々の知識』(Our Knowledge of the External World, 1914)というものを読み続けて来た。恐らく,ラッセルが言うが如く,哲学は人間の運命に関する諸問題の解決を与えないし,また与えるべく努力もしないのかもわからない。恐らく人生の実際的な問題に答えを見出すことを望んではならないのかもわからない。というのは,哲学者はもっと重大な問題をかかえているのかも知れないのだ。」
とやや悲観的な言葉をモームは述べているが,哲学という学問を実際に役立てようとしたモームの方にいささか無理があるようだ。しかしモームはその書いたものから判断して,ラッセルの意見に大いに影響を蒙っていることを多くの人は見逃せないと信じている。(筆者は当時,和洋女子大学教授,日本モーム協会幹事)