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シェル・ストレムベリ(著),北川五郎(訳)「バートランド・ラッセルに対するノーベル文学賞授与の選考経過」

* 出典:『ラッセル;チャーチル』(主婦の友社,1972年。ノーベル賞文学全集・第22巻)pp.6-8.
* シェル・ストレムベリ: 元パリ駐在スウェーデン大使館文化参事官

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 1950年,全世界は,スウェーデン・アカデミーがその年審査・決定する2つのノーベル賞(文学賞・平和賞)の1つは,前年1949年度は留保されたので,当然ウィンストン・チャーチル卿に授与されるものと予想していた。あたかも元イギリス首相は,かれが主要な主人公であった第二次世界大戦の見事な叙事詩の第3巻を刊行したところであった。しかも,かれにはアカデミーの内部にさえ多数の熱烈な支持者があった。これは問違いなく推測できることであるが,アカデミーは,このチャーチルの巨大な仕事が首尾よく完結するのを待ちたいと思ったのである。

 他の非常に有力な候補者は,この年スカンジナヴィアの全文学者協会から推薦されたスウェーデンの詩人・劇作家・小説家のペール・ラーゲルクヴィストであった。しかし,かれの著作の刊行者がニューヨークに着くやいなやアメリカの新聞に,かれが確実な勝利者であると述べた不用意な談話が,この年は,かれを競争圏外に去らせたようであった。

 ほかにも,すぐれた候補者がないわけではなかった。イギリス人,フランス人,それからアメリカ人,そのうちの何人かは,たしかに後日この栄冠をかちえている。スウェーデン・アカデミーは,1949年度の文学賞のためウィリアム・フォークナーについて協議したあと,1950年度の賞をこの年はじめて推薦されたこのアウトサイダー,バートランド・ラッセル卿に授与すべく方向転換した。卿はイギリスの哲学者・社会学者で第3代のラッセル伯爵である。ラッセル家は,代々,シェークスピアによって有名となった,チュードル家とプランタジネット家がイギリスの王位をめぐって争ったあの時代からの名門であった。

ノーベル賞とアルフレッド・ノーベル [ こどもくらぶ ]


 この決定の意外なことに一般は驚いたが,さしたる批判もないようだった。アンリ・ベルグソン(1859-1941.01.04)は)がノーベル賞を受けた1927年このかた,哲学者はひとりも受賞者名簿にあらわれていない。しかも,このイギリスの貴族は,すでに80歳に近く,思想の革新者でもなく,また,かれのフランスの先輩のように文体に芸術家としての想像力を恵まれてもいなかった。しかし,かれは,18世紀のイギリスの偉大な思想家たち,ロック,バークリー,およびヒュームの経験的人道主義的哲学の優雅な,才気に富んだ継承者,あるいは普及者として広く知られ,のみならず,かなり一般的にも有名であった。しかも19世紀の同様に有力な功利主義者たち,ジェレミー・ベンタム,スチュアート・ミル,ハーバート・スペンサーとの類似がないわけではなかった。

 われわれは,ハーバート・スペンサーが,とくにアルフレッド・ノーベルによって高く評価されていたことを知っている。ノーベルは,スペンサーがその候補者,しかも非常に注目された候補者であった第1回のノーベル文学賞を授与されたとしたら,どんなに喜んだことであったろう。たしかに,スウェーデン・アカデミーは,この事情をよく知った上で,ラッセルならびにスペンサーが代表する,そして賞の贈与者ノーベルも同様その一員であった思想界に,遅きにすぎ,また慎重にすぎたともいうべき敬意を表することにより,ノーベル財団の五十年祭を記念したいと望んだのであろう。

 ついでながら,ラッセルの父の友人 J.スチュアート・ミルが,また,若きバートランド・ラッセルの代父であったことを思い起こす必要がある。ラッセルは,かれの家の伝統的自由主義により強く刻印された雰囲気のなかで育てられた。ラッセル家は,代々,常に反対の立場に立った。しかもその一族の数人は,時代の多少とも革命的思想に一身を捧げて忠誠を尽くした。さればこそ,当主のラッセル卿も第一次世界大戦中の平和運動のために6カ月の懲役に服さなければならなかった。のみならず,後日,かれの大学の教職は,イギリスで,そして第二次大戦中,居を定めたアメリカで,何度か中断された。それは,政治その他,とくに結婚と産児制限についてのいろいろな問題に対するかれの自由すぎる反国教的思想のためである。しかし,かれが大賞を受けたとき,かれは,あの労働党内閣時代に,少なくとも一時的に,国王と和を結んだ。この和解の明白なしるしとして,かれは,最大限24人の所持者しかなかったメリット勲位の頸章を1949年にジョージ6世から授与された。往年の革命家は,ストックホルムに着いたとき新聞記者たちに打ち明けた話を信ずれば,この勲章をノーベル賞と同様誇りとしていた。そしてストックホルムではあらゆる儀式に得々と佩用(はいよう)した。

 1950年度のノーベル賞は,「かれを人類と思想の自由の擁護者たらしめた,豊かであるとともに重要な,かれの哲学作品に敬意を表す」という簡潔な理由によってラッセルに授与された。意見を求められた報告者,ストックホルム大学の哲学教授は,ラッセルの哲学的,科学的,歴史的,社会学的,それから政治的な,膨大な作品を分析後,ラッセルは,ゆうに,前にノーベル文学賞を授与された2,3の「非文学著作家」,モムゼン,オイケン,およびベルグソンに匹敵するとの結論に達している。もしもスウェーデン・アカデミーが同じくイギリスの知的文化を顕彰したいと望むならば,バートランド・ラッセル以上にふさわしい代表者を見いだすことはできないだろう。かれは,イギリスの国内に,時代おくれの,石化した「ヴィクトリア王朝風」のあとを継いで一つの,新しい風土を生むことに,貢献した,バーナード・ショー,H.G.ウェルズ,および J.M.ケインズのような,時代の先端を切った著作家たちの一人であったであろう。哲学的計画では,かれは,その長いイギリスの経験的伝統,すなわち常識と明快な思想と自由な人道主義の伝統の,もっとも顕著な代表者であろう。かれのおかげで,この伝統は,かれの祖国以外で地歩をえはじめた。アングロサクソン世界全体のなかで,ラッセルこそ,貴重なメッセージの伝達者であり,しかもすべての教養人に解りやすい文章で表現できる著作家たちのうちで,もっとも読まれた一人であったろう。

 したがって,スウェーデンはじめそのほかの国の新聞は,この新受賞者に対してきわめて慇懃な敬意を表した。ときたま,人びとは,「現代非文学の最大の著作家」,ストックホルムの自由主義の大新聞『ダーゲンス・ニュヘテ』紙はすぐれた歴史家ウィンストン・チャーチル卿をこのように呼んでいたが,このチャーチルが,たしかに相当多彩で,また非常に尊敬すべきではあるが,ノーベル平和賞により,いっそう良くとは言えないまでも,同様十分に報いられたであろう同国人に,歩を譲らなければならなかったことに対する深い失望の色をかくさなかった。
 左翼系のイギリスの新聞も,いちおうは満足したが,それほどの熱狂は示さなかった。御用新聞の『タイムズ』紙は,説明を加えず事実を報道し,保守系の主要機関紙も同様であった。

 それほどまちまちではないが,いっそう明白だったのは,アメリカの新聞の反響である。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙は,その年1950年度の2人の受賞者,すなわち文学賞のラッセルと平和賞の J.R.バンチの一種の比較を試みている。バートランド・ラッセルヘの授賞は,この新聞の主筆によると,おそらくはウィーリアム・フォークナーと賞を釣り合わせる試みを意味する。「自由の使徒であり,現実に目を向けた哲学者であるラッセル氏は」とこの解説者はつづける。「イギリスの思想のもっとも輝かしい巨匠の一人である。かれは,われわれに,われわれをおびやかす不幸を知らせる必要を感じていたにせよ,人類にフォークー氏より多くの希望を与えた,ラッセル氏は,かれの読者に近代人が,今日の制御されていない世界においてさえ,みずからの運命の制御者となりうることを理解させた。もしも人間が現に不安と苦悩にとらわれているとすれば,それはみずからの愚鈍とみずからの悪意の結果である。したがって,偉大な哲学者と平凡な一市民とは,たとえその市民がオックスフォードの小都会,フォークナーで有名となったミシシッピー州の小都会に住んでいたとしても,互いに理解し合えることは疑いない。この根拠の上で,少なくともスウェーデン・アカデミーによって授与された2つのノーべル賞は,まったく承認できるように思われる。」
 卿への授賞の際なされた演説のなかで,スウェーデン・アカデミーの常任理事アンダーシュ・エステルリング氏は,かれに対して讃辞を惜しまなかった。かれは,半世紀来バートランド・ラッセルが,きわめて多方面な,壮大な次元の作品により,公の論争の中心となっていることを想起する。われわれの知性の土台と数学的論理に関する受賞者の研究が,力学の領域におけるニュートンの研究と比較しうるにせよ,ノーベル賞がかれに授与されたのは,まず第一に,これらの純粋に科学的な業績に対してではなく,そのほかの理由に対してである,と演説者は強調する。アカデミーの目に重要と思われたことは,むしろ,ラッセルが,かれの著作により「素人」の世界の民衆に達することができ,かくして,非常に現実的なさまざまの領域において提起された諸問題をめぐり,実りある討論をつづけることができた事実である。この仕事を追求しながら,かれは,作家の稀なエリートにしか見いだせない文体を発達させた。哲学者ラッセルを読むことは,とエステルリングは言う,しばしば,機知に溢れる喜劇のなかで,大胆な,無礼な言葉を吐くときのバーナード・ショーのスポークスマンのせりふを気楽に聞く喜びと同じ喜びが与えられる。最後に,この演説者は,ラッセルの思想が,どれほどアルフレッド・ノーベルがその賞を創設したとき指針となった思想と合致しているか,を強調した。懐疑主義者であると同時に理想主義者であるこの2人とも世界を暗い見通しで眺めたが,人間を,結局は,理性の法則にしたがい振舞うように導くことは,常に可能であるとの信念を堅持した。スウェーデン・アカデミーは,それ故,ノーベルの名を持つ財団の50年祭を機会に,的確にバートランド・ラッセルに光栄を与えることによって,アルフレッド・ノーベル自身に光栄を与えると信じたのである。

 ラッセル卿は,翌日(1950年12月11日)行なった世界の政治の現在の動向に関する記念講演形式による答辞のなかで,よかれあしかれ,われわれの住むこの世界を,教育の試練を経た方法にその改革を任せることにより,幸福にすることができるのは人間の知性のみである,とのかれの不動の信念を,もういちど確認することを忘れなかった。われわれは,この楽天主義的信念の宣明が,新しい,遠く響きわたる戦争,すなわち朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)の突発したときに起草され,そして演説されたことを銘記すべきである。


1.初代はベッドフォード公爵の3男として生まれたジョン・ラッセル(1792~1878)で,ラッセルの祖父。第2代はアンバーレー卿(1842~1876)でラッセルの父。(松下注:間違い! 第2代目ラッセル伯は兄フランク。)
2.(1632~1704)イギリスの哲学者,政治思想家。
3.(1685~1753)アイルランドの哲学者,歴史学者。
4.(1711~1776)スコットランドの哲学者,歴史学者。
5.(1748~1832)イギリスの哲学者,社会学者,経済学者。
6.(1806~1873)イギリスの哲学者,経済学者。
7.(1820~1903)イギリスの哲学者,社会学者。
8.(1945~1951)
9.(1866~1946)イギリスの小説家,文明批評家。
10.(1883~1946)イギリスの経済学者。
11.(1904~  )アメリカの黒人政治学者。