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(日本のラッセル研究者・関係者の発言)

日高一輝

 今年(1967年)2月、渡英してまっすぐに訪れたのは、北ウェルズのペンリンダイドライス村(→ ペンドリン・ディドライス 参考:ウェールズの地名の読み方である。風光明媚なプラス・ペンリンの人里離れた閑居でバートランド・ラッセル卿にお会いするためである。
 二月ももう下旬というのに、北ウェルズの冬はなかなか去ろうとしない。零下数度の厳しい寒気が膚に痛かった。
 やや風邪気味でひきこもっておられた卿であるが、やさしく迎えてくれた。去年の六月にロンドンでお目にかかったばかりなのに、いくぶん憔悴の色がみえて、ご老体を痛々しく感じた。・・・。
 朝八時に起床されて、寝につくのが深夜一時頃、読書と執筆の日課もあいかわらず規律正しい。執筆はおもに書きかけの自叙伝第二巻の完成をいそがれるのと、あとは平和のアピールのためのメッセージやエッセイ。読書は多くは東洋の思想に関するもの。
 時にクラシック音楽のレコードをたのしみ、時に庭におりてそぞろ歩きをされる。
 食事はやはり依然として固形物をさけて流動食が主である。胃の一部のわん曲が堅くなっておられる。栄養食はほとんどスープにしてとるほかはない。それでも日に三度の食卓にはきちんとつかれて、気のおもむくままにウィスキーに手がのびる。食後のパイプはほんとうに楽しそうである。パイプの歴史もすでに76年。パイプの話になると卿は嬉しそうだ。ハイティーン時代にならいはじめたものである。おばあさんにひどく叱られたという。長生きして、人類のためになる仕事を沢山しようと思えば喫煙はやめなさいと説教された。
 「それでも私は今に95歳を数える。・・・。どういうんだろうね、これは。」(詳細は、『ラッセル協会会報』n.8,p.8参照)

 ラッセル卿は、その年(1969年、97歳)にいたるまで全然、聴覚に異常がなかった。人と語りあわれるのに補聴器を使われたことが一度もなかった。また、本を読んだり、書き物をされるのに眼鏡をかけられることがなかった。背が真っ直ぐで、少しも老を感じさせなかった。さびのあるハスキーな声には透きとおる力がこもっていた。結論の明快さと、行動の機敏さにも何の変わりがなかった。愛用のパイプ(フリブール・アンド・トレイチャーのゴルドン・ミックスチャー)はつねに卿の手から離れることがなかった。大好きなスコッチウィスキーのレッド・ハックルはつねに卿の食卓にあった。たてつづけに四杯も飲みほされる紅茶、そしてその紅茶茶碗を両手で温めるようにかかえる仕草も最後まで卿の習慣になっていた。・・・。
(詳細は、『ラッセル協会会報』n.15のp.12 参照)