{lang: 'ja'} 沢田允茂「ラッセルと論理学」(研究会発表要旨) - Bertrand Russellのページ
           

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(研究会発表要旨)沢田允茂「ラッセルと論理学」
『ラッセル協会会報』n.4(1966年5月)pp.2-3.

★本稿は、昭和40年10月22日開催「第一回研究会」の講演内容の要旨。沢田氏は当時、慶應義塾大学教授
[追記・2006.04.14]慶應義塾大学名誉教授の沢田允茂(さわだ・のぶしげ)氏は、本日午前4時2分、心筋梗塞で逝去、89歳。沢田氏は、日本哲学会会長、日本科学哲学会会長を歴任。あまり知られていないことであるが、沢田氏は慶應義塾大学労働組合の初代委員長(1959年)


 バートランド・ラッセルの思想的活動は現在の平和運動をはじめとして非常に広範囲にわたっている。しかしそれらのなかでもっとも学問的であり、しかも間接的であるにせよ、人間の思考ひいては行動に大きな影響をあたえているのは、ラッセルの論理学の領域における業績であるということができる。ラッセルの論理学における仕事は、かつてカントが「アリストテレス以来進歩もなければ後退もない、いわば完成された学問」とよんだ論理学に新しい、より包括的で厳密な形式化をあたえたことである。このような仕事はもちろんラッセルがただ一人の力でなし遂げたことではなく、彼以前に多くの数学者や論理学者たちが部分的に、またはよりエレガントでないやり方で到達していたものである。ラッセルの功績はその統一的でエレガントな形式化の最初のきっかけを与えたこと、ならびに論理学の形式が哲学上の認識論や存在論にたいしてどのような決定的な影響をもつかを意識的に明らかにしたことである。ヴィトゲンシュタインや論理実証主義に対する彼の影響は、特にこのような哲学的側面においてであった、といえる。そしてこのような新しい哲学の諸傾向は、必ずしもラッセル自身の賛成を得てはいないにしても、彼の論理学的見地からする伝統的哲学にたいする批判を起源として、現在の一つの強力な哲学的学説となっている、ということはいえるかも知れない。
 一口にいうと、彼の論理学は従来の伝統的な論理学が、無意識のうちにうけていた一面的な、文法的な彎曲と混乱とを組織的に否定し、一切の存在論や形而上学的解釈から解放された厳密な形式化と合理化とをもちうるように再編成されている。このような論理学は伝統的なアリストテレス=スコラ的な形式論理学と並んだ、一つの新しい論理学というようなものではなくて、伝統的な論理学の形式化の領域を含んで、さらにそれ以上の従来では結びつかなかったような新しい多くの領域をもおおうところの、より進んだ形式であるということに対して、現在ではもはや疑いをさしはさむ余地はない。
 ところで人間の物の考え方をよく分析してみると、われわれが全く自然に事物について考えていることが、実はわれわれの言語や論理を反映している、ということがわかる。たとえば、ある事物の本質は何かとか、その実体は何か、などと考えるとき、本質とか実体とよばれているものが恰も独立して存在しており、これをわれわれが把握するのだ、というようなイメージをもつだろう。このイメージは本質とか実体の存在を認める一つの存在論を前提としているのであるが、この存在論をさらに注意ぶかく分析してみると、われわれが日常いろいろな事がらについて語る文のなかでの主語−述語という区分の仕方に関係していることがわかる。ところで普通、われわれは主語はあるものを指し、述語はそのさされたものについて何かを言及する、というように考えているが、一体、主語が指すものはどのようなものだろうか。たとえば、「円い四角は存在しない」という文の主語は「円い四角」であるが、この主語が指すものが存在しているといえるだろうか。
 「現代のフランス王は利口である」という文では、現代フランスの王様は存在しないのだから、主語「現代のフランス王」は一体なにを指したらいいのだろうか。
 このような一連の問題の分析はラッセルの1905年の作文 "On Denoting" の主題になっており、これらの問題の解決のためには、従来文法的な主語と考えられていたものが論理的にはほんとうの主語ではなく、ほんとうの論理的な主語は命題関数Fxのなかの主語変項x、即ち「なにかあるもの」、「それ」、「これ」といったものであって、これを論理的主語として論理的に構成された表現が「円い四角」だとか「現在のフランス王」などという表現である。ラッセルの論理学のなかで有名な記述理論 theory of the definite descriptions はこのような文法的表現を論理的に構成するやり方を述べているのである。
 ラッセルの新しい論理学にもとづいた考え方で事物を見るときの考え方の基本的な型、あるいはラッセルの論理学に対応する存在論はいわゆる「論理的原子論」(logical atomism)であり、これは実体−偶性の区別の上に成り立つアリストテレスの存在論とことなり、xを主語として作られる最も単純な命題の表す事実を原子として、これから論理的に構成される多くの他の事実の世界をその対象としている。勿論、ラッセルの論理的原子論にはまだ不十分なところがあって、その後のより進んだ解釈をまつのであるが、ともかくも新しい論理学にもとづいた新しい存在論なり認識論、包括的にいえば新しい哲学を建設しようとしたラッセルは単なる論理学の専門家ではなくて哲学者であるといわなければならない。ただ彼の哲学が客観的な学としてより新しい進歩した論理学にもとづいている、というところにラッセルの思想の真の生命力と意義とがあると思われる。彼の思想は既成のイズムやイデオロギーで単純にわりきって理解さるべきものではないし、もしそのように理解されたとすればそれはラッセルの本当の考え方を理解していることにはならないだろう。たとえ最後の大まかな結論がいかに既成のイズムやイデオロギーと同じようなものであったとしても、そこに到達するまでの彼の思考の歩みは、彼の論理学的な思考にそってなされているのであり、この新しい論理的思考の発想法を理解しなくては、彼の真価を理解したことにはならないだろう。特に、人間が「何を考えたか」ではなくして、「如何に考えたか」が大切であるとすればなおさらのことである。ラッセルのより通俗的な論評、たとえば結婚論や幸福論や、或いは彼のキリスト教に対する態度やコミュニズムに対する態度、平和の理論などは彼の論理的思考からすべて直接に由来したものではないとしても、このような思考的態度の総括的な結論であったり、また要請であったりする場合があろう。論理というものは間接的であるかも知れないが、最も深い所で人間のあらゆる思考の方向を決定しているものだともいえよう。そしてラッセルの偉大さの最も根本的な側面の一つが、彼の論理学の領域における研究と、これを実際のより多くの問題についての思考のなかに生かしてきた彼の哲学的な包括力であるともいえるだろう。(了)