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笠信太郎「ある日の対話」
『日本バートランド・ラッセル協会会報』第3号(1966年2月)pp.4-5.
*
笠信太郎(1900-1967)
は、日本バートランド・ラッセル協会の初代会長
師走もおしせまって、
神父A
と
俗人B
の2人は、郊外に車を走らせながら、世間話を楽しんでおりました……
神父A
「…私も、よく知人のうちなどに招かれるんですが、夕食のあとに
テレビ
を見せるんですよ。あれはどうかと思いますね。テレビなら、ウチでも見れるんですからね。話などは、ほとんどやらないで帰ってきますよ。」
俗人B
「神父さんのお話は聞きたくないんですかね。それじゃ、お招きした甲斐がない…」
神父A
「日本人て、話がヘタなんですね。」
俗人B
「ヘタじゃなくって、やろうとしないんじゃありませんかね。でも、ペチャクチャはよくやる。たしかに、ヘタじゃありませんよ。」
神父A
「でも、滅多に面白い話をききませんよ。」
俗人B
「なるほど、面白く話すということは…それも内容からみて面白い話というものは、たしかに少いですね。」
神父A
「私なんかも商売のくせに、話がヘタなんですが、面白い話には傾聴いたしますよ。」
俗人B
「日本人が…というのもおかしいが、…われわれなんですがね、2,3人集まると、とにかく、
ひとの悪口
ばっかりですね。」
神父A
「それは、どうやら確かですな。」
俗人B
「やれ、課長がどうしたの、あいつはけしからんの…」
神父A
「誰れそれが、えらくなったが、あれは…というふうに、すぐ悪口の方にゆくようですね。」
俗人B
「婦人たちは
井戸場(端)会議
を、近ごろは応接間に集ってやっていますね。男はおでん屋でも、バーでも、ひとのウワサばっかり…」
神父A
「教会なんかでは、随分と神妙にしていらっしゃるんですがね。」
俗人B
「ある相当大きな会社の社長夫人のところに集ってくる重役夫人たちの店ですがね、その主人たちがみんな同じ大学の出身なんだそうで、それでグループを作ってるんですね。そしてこの社長夫人の音頭で、幹部社員の昇級リストが出来ているんだそうですよ。そこで、ほかの大学を出た連中は、重役になりっこなしというんです……」
神父A
「驚きましたね。世の中のことにはうとい私らですけれど、…」
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俗人B
「まさかと思って、私も念押しに聞き返えしたのですが、大まじめでいってるんです。もう重役を前にしているくらいの年配の一人が、嘆いているんですね。とんだ社交夫人たちの、とんだ社交だというわけです。もっとも、日本人のほんとうの社交は、互いにお話をするということじゃなくて、物のやりとりだという説がありますね。」
神父A
「それはまた、一体、どういうことなんでしょう。」
俗人B
「いや、ねえ、お盆でも、正月でも、さかんに
贈り物
をしますね。物を贈ったり、やったりすることが、
社交
の眼目だと考えているんですね。」
神父A
「なるほど、ほかには社交らしいことをやりませんからねえ。」
俗人B
「全くないとは、むろん、いえないでしょうがね。それ、……会社が社員を使って社交をやらせますね、これは日本独得らしいですが、…そこで
交際費
というやつが、去年(1965年)は総計で、5000億円という壮大極まる社交をやっているんですね。これは会社の社交なんでしょうが、やはり「もの」をやったり、取ったりのたぐいに属しますね。あるいはそれ以下のものに。…そうして、おっしゃるように、ほんとうのお話というものには日本人は身を入れません。物をやっておけば、それで何もかもすんでると考えているんです。これは社会学でよく引用するインディアンの例のポトラッチですよ。部族同志のつきあいとして、どえらい贈り物を他の部族にやる儀式を大々的に行って、自分たちのえらさや寛大さを誇示する。そして、それに対して相手方が、それ以上のものを贈ってくるのを期待するというんですから、どうも日本人に似ていますよ。」
神父A
「日本人は精神的で、向う様は物質欲のかたまりみたいなことを、よく戦争中など言ってきたもんですが、実は、日本人こそ意外に物質的なんですね。わたしもそれを時々思い当たりますが、やっぱりそうなんですかね。」
俗人B
「あれは精神的じゃなくって、一種の観念的なんじゃありませんかね。」
神父A
「とにかく社交が物質的なものであっては、なるほど世の中がややこしいことになるのは、無理もないわけですね。"黄金多からざらば交わり深からず"ですか。」
俗人B
「もっとも"君子の交わりは淡きこと水の如し"というのもありますが、この東洋の
君子の交わり
は、西洋風の社交を意味しますかね。交わりはあっても、社交はない、というのが東洋かも知れませんね。」
神父A
「西洋の社交というのは何だか複数の集りのようですね。…東洋の、君子の交わりとはちがって、そこで"話"が大切ということになるんでしょうな。」
俗人B
「日本の社交は、昔の…今のじゃありませんよ…
茶の会
なんかが、それにあたるかも知れんと思いますが、それがまた、すぐに俗っぽいものになり下がりがちなんですね。」
神父A
「今なら、近頃はやりのパーティーでしょう。」
俗人B
「そのパーティーが、千金を用いることに主眼があって、500人も、600人も集ってきて、ワイワイ、ガヤガヤやっています。時には演説などぶっているんですが、それがまた、すべて計画されたもので、そのうえ例のガヤガヤで、まるで聞こえやしない。ユーモアなんか丸ッきし。ボクは俗物ですが、それでも例のパーティーには、なるべく行かんようにしています。苦痛なんですよ。あれは社交じゃありませんね。名前さえそうなら、日本人はそれで安心するというところがある…」
神父A
「名前さえついておれば、…一そうですか、…議会制民主主義のごときもまた然りというわけですね。」
ラッセル協会会報_第6号
俗人B
「あれはたしかジンメルでしたか、社交というものは、芸術や遊戯と同じで、"純粋で透明"なものだ、といっていますね、その社交の中で、静かに、礼儀を失しないよう、しかし人間的なユーモアを忘れず、こころよく笑ったりしながら、お互いに話をする。その話で、お互いが知的な、あるいは精神的なレベルを高めるということですね、たしかに、芸術や遊戯のほかに、こういう重要な生活の領域がなくちゃならんわけですよね。」
神父A
「それこそハイカラでスマートなものなんですね。私も職掌柄、ミーティングのむつかしさというものを痛感しているんですが…」
俗人B
「近ごろは、男の服飾とかで、おしゃれやハイカラがはやるんだそうですが、おそまきながら、こんな社交のハイカラは是非まねたいものですね。
神父A
「ものまねはうまいはずだが、大事なマネは案外見落しているというものですかね。…」
俗人B
「個人個人は中々やるが、みんなが集ってやることのすべて、会議とか、社交とか、政治とか、こんなことになると、どうもいけません。」
神父A
「個人個人じゃなく、集団や社会を相手に、告解や説教をはじめますかね。」