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永井成男「(巻頭言)(ラッセル)理論と実践」
『ラッセル協会会報』n.20(1972年1月)pp.1-2.


 「言行一致」という最も通俗な意味では、ラッセルほど「理論と実践の統一」を体現した思想家は稀であろう。しかし、ここでは哲学的な意味で、「理論と実践」の問題を取りあげよう。「二人のラッセル」説、つまり理論家としてのラッセルと実践家としてのラッセルとの間には、'心理的な'統一はあっても、'論理的な'関係はないというラッセル評が有力であり、ラッセル自身が'ある意味では'それを公言していることも周知である。ある意味とは、理論と実践、記述的と規範的、事実と価値、存在と当為を峻別する二元論のことで、その立場は、プラグマティズムやマルクス主義に多く見られる自然主義的な一元論と鋭く対立する。カント主義において存在と当為の二元論が支持されたが、現代の分析哲学における分析的価値論(メタ価値論)の三つの代表的な立場、すなわち直観主義、自然主義、情緒主義のうち、直観主義と情緒主義が事実と価値の二元論を支持する点で、カント主義に通ずる考え方である。
 ラッセルはムーアの影響で、『倫理学の基本』(一九一〇)では直観主義をとったが、サンタヤーナの批判を受け入れて考えを改め、『宗教と科学』(一九三五)では明確な情緒主義がとられるようになった。問題は、倫理学に関する最後の体系的な著作『倫理と政治における人間社会』(一九五四)について、研究者の間で解釈が分れている点である。情緒主義の立場は不変であるという説と、自然主義的傾向への推移があるという説との対立である。私自身は後者の立場からラッセルの倫理学説を紹介したことがある。(大島康正編『倫理学』昭和三七年、有信堂) 情緒主義と自然主義とは、その極端な形では鋭い対立をなすが、ラッセルの情緒主義の場合は、カルナップやエイヤーほど極端な形ではなく、善を欲求の満足として定義することをゆるすような、自然主義的な含意の見られる未分化で曖昧な側面をもっているので、特に著しい立場の飛躍が認められるわけではない。もともと彼の情緒主義に含まれていた自然主義的傾向が、一層顕在化し、一種の功利主義的な規範倫理学として体系化されたのである。デューイなどに見られる自然主義の極端な形では、事実と価値、理論と実践の峻別を認めない一元論が支持され、二元論的情緒主義とは鋭い対立をなすが、かような自然主義的一元論そのものへの推移はなく、「二人のラッセル」説が強調するように、ラッセルは終生、理論と実践の二元論を貫いたと言わなければならない。
 この点で、私は「情緒主義」説に異議を唱えるつもりはないが、それにもかかわらず、功利主義的規範倫理学を構成したラッセルの立場は、たとえラッセル自身の主観的意図が情緒主義にとどまっていたとしても、単に情緒主義的二元論にとどまっておらず、自然主義的傾向への推移を認めないわけにはゆかない。以下、この私の主張の意味と根拠とを明らかにするため、主観的意図においては情緒主義の立場を変えなかったカルナップの見解を検討しよう。カルナップによれば、評価文は命令文と同様、主観の感情、意志の表現にすぎず、それはコトバと主観との間の表現関係による表現的意味をもつが、言語外対象との間の指示関係による指示的意味を欠いているので、評価文の真偽を問うことは無意味であり、したがって規範倫理学− 一般に規範的価値論− は不可能である。倫理学-一般に価値論については分析的並びに記述的な研究のみが可能である。(『哲学と論理的構文論』一九三五)
 詳細な説明を欠いたカルナップの情緒説は、多くの誤解と反発をまねいた。人が生活を営むとき、価値判断を下さざるを得ないが、情緒主義はこの権利を失い、ニヒリズムにおちいる他はないのではないか? カルナップは、晩年にこの疑問に答えて、彼の立場をかなり詳細に論じた。(シルプ編『カルナップの哲学』一九六一二) それによると、情緒説は価値判断を下す権利を失うものではなく、彼自身は、他の多くのいわゆる論理実証主義者たちと共に、一貫して道徳問題と政治問題に関心をもち続け、一種の社会主義の立場から、「科学ヒューマニズム」とよばれる実践的立場を支持して来たのである。評価文には、無条件的なもの条件的なものとの二種がある。それは、ラッセルにおける本来的価値(善)手段的価値との区別に相当する。指示的意味を欠き表現的意味をもつにすぎないのは前者だけである。後者は、外見上は評価語を含む評価文だが、本当は経験的言明であり、指示的意味をもち、真偽いずれかであるから、理論を構成することができるのである。
 以上が、カルナップの晩年の見解であるが、これは問題のラッセルの晩年の見解と酷似している。(善を定義しないカルナップは一層情緒主義的傾向が強いという点を除いて)カルナップは主観的には明らかに情緒主義を意図しているにもかかわらず、次の理由で、私は自然主義的傾向への推移があると解するのである。
 例えば「健康が維持されることはよい」と仮定すると、「窓を開けるならば、健康は維持される」という事実認識に基づき、窓を開けるという手段は、健康を維持するという目的を実現する手段として有効である(条件的評価文、手段的価値)。そこで、目的に対する評価を避け目的に対する手段の有効性について条件的評価文を構成する理論は科学的に可能である。ラッセルの功利主義的規範倫理学の試みも、この意味での規範的理論である。しかし、「健康が維持されることはよい」と「窓を開けるならば、健康は維持される」という前提から、「窓を開けるのはよい」と結論する推論(実践的三段論法)が論理的に妥当であるためには、「論理的含意」という意味論の概念を要し、それは評価語に指示的意味を認めない単なる表現的意味の語用論からは不可能である。したがって、主観的意図がどうあろうと、晩年のラッセルもカルナップも、単なる情緒主義的二元論の立場を越え、理論と実践の統一を志向する自然主義的傾向への推移を認めなければならない。しかし、素朴な自然主義的一元論が復活されたのではなく、情緒主義的一元論がなお、かなり保持されているような立場なのである。(東洋大教授・永井成男)