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牧野力「ラッセルの言葉 'Open Hearts and Open Minds'」
『ラッセル協会会報』v.10(1968年4月刊)p.11 掲載

*(故)牧野力氏は当時、早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会常任理事


 近く九十六歳の誕生日を迎えるラッセル卿は、昨年(1967年)五月十八日に、「宗教は虚偽かつ有害なり」と断じ、簡明な挙証の後で、「今世界に必要なのは、広い心情と賢明な知性("Open Hearts and Open Minds")である。両者は、新旧を問わず、ゆとりのない厳しい組織からは生れない」と結んでいる。
 人間誰も不完全な、孤独な、かなしい存在(である)と反省する経験や無限の虚空に包れた思いで生きる日もある。救いを求め、何かにすがりつきたい気持になる。素朴な宗教感情であろう。
 問題は、その次に訪れるもの、つかむもの、意図するものにかかってくる。神の恩寵に、仏法の悟りに、人間の自主、自立に、あるいは社会悪の一掃に、救いを求める人が出る。
 幼時(に)キリスト教的訓育を受けたが、卿は神を知見しなかった。現世的な、人間的な、論証可能な次元において、人間本来の道を求めた。
「人間は人間以外のものたりえず、万人には独自のメリットが必ず在り、隣人より優る者も劣る者もなし。」
という信念を基調に、民主主義論と世界政府論とを展開させた。
 卿が宗教を否定する時、目立つのは、どの宗教にも通ずるものとして、独断、排他、狂信を指摘する点である。そして明知、寛容、自由を対比させる。宗教の論理を迷妄とみる。

 そして、次のように説く。
「世界が(皆)基督教徒になれば、国際紛争は消え去るという発想は妄想である。第一次大戦の参加国の元首、首脳部は熱心なクリスチャンと自負しており、反戦家(に対する)迫害に拍手したのを想起すればよい。産児制限禁止を忠実に実行すれば、地上は貧困と戦争の巣となる。現代に見放されたアリストテレスの論理学によって、カトリックは神の存在を論証しようとする。人間が神の設計に従って生きるという発想は進化論によって論破された。
 ヒンズー教の白牛聖視や未亡人の再婚禁止令も無用の害を与える邪教である。
 中世の教会を想起させる共産主義も宗教であり、少数者の独裁を支持する危険は反民主的虚偽である。
 更に、国家主義的な現行教育制度は、青年の心から'考える自由'を奪い、青年に共倒れ戦争に駆り立てやすい敵視政策や、狂信排他主義の偏向教育を行なっている。従って、かかる教育では青年を宗教の虚偽と有害とから救えない。」
 そして、正しい教育による、明知、寛容、自由への道を説くのである。
 ラッセル卿は、持ち前の論証好みから、経験を純化する。神にすがらず、原罪的に人間の背負う十字架の道を、明知、寛容、自由への精進の道と読みかえて、教育の在り方に人間改造の望みをかける。その指標がオープン・ハーツ・アンド・オープン・マインズである。
 しかし、この筋道の立てかたの当否や成否は、事実と論理との関係から観て、現実には人間の行為乃至気根という変数の扱い方によってきまるのではあるまいか。
 日本人の間でも、『正法眼蔵』を愛読する型と『歎異抄』に心引かれる型との気根の差はどうしようもない現実である。
 宗教がプラスする型とマイナスする型とが、個人生活の範囲内ではある。プラスよりもマイナスに傾くのは主として社会的な面であろう。宗教人の説教によるよりも、科学により共倒れ戦争の事実を認識させることの方が反戦への説得力をもつという現実も忘れてはならない。
 自然への畏敬と社会への不安とに対処する'救い'の道は、基本的には、明知・寛容・自由への道ではあるが、今迄の宗教的現実には、人間の生への営みとしてのある根深さに裏付けられている。それだけに、集団性と多様性との攻勢下にある今日の人間社会において、宗教有害論の論証からも、オープン・ハーツ・オープン・マインズの効用のためにも、何かあるものが望ましいという気がする。それが何であるか、筆者にもわからない。唯、集団性と多様性とに、有効に対決しうるものがない限り、宗教有害論の論証乃至価値ある断定とはなれないのではあるまいか。(あるいは、人間機械系に関連する問題が論証のために登場するのではないだろうか。)