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牧野力「(ラッセルが)若者たちの心をとらえるところ」
『ラッセル協会会報』n.15(1970年5月)p.19-20.

* (故)牧野力氏は、当時ラッセル協会常任理事、早大政経学部教授



 ラッセル卿の訃報から話が始まって、部室に集った学生たちの間で、彼のどんなところに一体心を引かれるのか、という話題に話が集中した。

 彼らは言う。
 それは先ず、読む者に新鮮な印象を与える物の見方・考え方・発言である。
 おとなたちは、社会通念と称して、型にはまった月並みな物の見方や判断からしかものを言わない。問題意識の掘り下げ方が不徹底にみえる。それだのに、ラッセルは中年過ぎてからの著作の中でも、惰性的な考え方をしていないのには心引かれる。
 例えば、民主主義の論拠について語る時、綺麗ごとをならべないで、ズバリ、人間各自の「利己心」をえぐり出してくる。
 物を考える時、いつも人間自身のしでかす性向を見落していない掘り下げ方をしているという印象を与えるので、説得力をもつ。
の画像  時には、この点が既知の事項として、表面に出されなかったりすると、飛躍している、と判断する錯覚にとらわれる。また、表象の技術かも知れないが、賢い人によく見られる言い方として、逆説的な表現が多い。一見した時には戸惑う。世間の常識に反しているように思われるからである。でも、暗やみに目がなれると、次第に、まわりのものがよく識別されてくるように、前後の論理がわかると、逆に魅力を感ずる。
 民主主義を達成する必須条件として、ルール尊重と寛容とをあげている。これらが、チャンと納得されるには、つなぎが必要と思った。この継ぎ目を示す場合と、言及していない場合とある。してないと、引きまわされて、骨が折れる。でも、ラッセルの掘り下げているところの視点に気がつくと、前後の脈絡がハッキリする。そして、彼の考え方の筋道の立て方に敬服する。こんな場合にも新鮮味を感じ、魅力となる。
 論理が明快であっても、結論や片鱗しか出ていないことがあって(松下注:結論だけあるいは部分的にしか述べていなかったりして?)、別の著書を読むとそこにヒントになる発言が出ていたりする。重複もよくある。
 多数決原理が近頃とりあげられる。ラッセルは、多数派と少数派とを論評して、少数派を「進歩」への貢献者として肯定的にみて、多数派を無智と偏見に動かされる集団とみなし、新しい思想には必ず初め反動的に振舞ってきたという批判的な考え方に共感を抱く。そして、これが古い著書に書いてあったので驚いた。「多数決」問題が「人間」を媒介にしてむずかしい問題であり、直接民主主義という手続面だけで解決しない問題であるし、「教育」「教養」の問題が「利害」の問題とからみ底辺に在ることを教えられた。
 ラッセルは内心では民主主義者であることを自負していると思うが、民主主義を万能(薬)視していないのには好感がもてる。絶対視しないで、個々の適用関係の場合と限界とにふれていくキメの細かさは学ばなければならないと思う。絶対視しない態度は、徹底した懐疑精神の持ち主として、数学基礎論で業績を残した哲学者の面目に通ずるところと観ては誤りなのかしら。
 知性の権化みたいに頭の鋭い人間であるくせに、冷たい人間でなくて、激流のようなほとばしる人間味ある情熱と実行力とを持ってるのはどうみても、驚異であるし、偉人・天才という気がする。若い時、反戦運動で投獄された時、午前・午後・夜と日課を定め、愉快に規則的な生活をしながら、数学の本を書いたことなどは普通ではない。理性と感情の振幅の広いことだけでなく、バランスがとれているのだろうか。彼が死んで、国際関係の問題で、指針となるような是々非々の発言する人がいなくなったのが淋しい。
 しかし、巨人や英雄を待望するのはどうかな。もっと、彼を知る者がふえるようになり、研究する必要があるような気がする。