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(寸言)牧野力「集団の中の個人」
『ラッセル協会会報』n.14(1970年3月刊)p.9.

*(故)牧野力氏は当時、早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会常任理事


 (最近)こんな、言葉をよく耳にする(松下注:あくまでも1960年代のことです。)
 「近頃の人間は型にはまって小粒だ。独創性なんか全く持ち合わさず、消極的で、生地(いくじ)がない。付和雷同し、組合の斗争にはすぐ走る。」
 そして、「けしからん!」と、言外ににおわせる御仁も少くない。
 サテ、知慧の足りない筆者は、半信半疑で、上野公園の西郷さんを思い浮べればよいのかナ、と思った。しかし、内心、過ぎ去った日への郷愁的心境に立つ厭世居士の発想に物足りないおもいがしたり、このような時代の移り変りの中に何か必然的な論理があるように思えたり、悲憤するよりもむしろ前向きに何か積極的に対策所信を明示してくれたらと、いくらか反発したくなったりしたものであった。(筆者自身が小粒の一人だとみなされたくないときおい立つのでもなければ、小粒でないという、うぬぼれから出た反発でも、勿論、サラサラない。)
 「では、どうすればよいと、あなたはお考えでしょうか、教えて下さい。」と、むしろ、反問したい気持が、いつも、心の底にあった。
 ところが、その私に、ラッセル卿がこの心境の打開というか、解明の論理の糸口を与えてくれたような気がする。
 それは、ラッセル卿がまだ若い項、第一次世界大戦中、反戦運動で投獄され、六カ月後に出所して(松下注:1918年5月初めに入獄し、9月に出獄しているので、入獄期間は約5ケ月)、各地で講演していた頃、グラスゴーの炭坑労働者大会において行う予定だった講演内容の一部である。(この講演は、英陸軍省の命令で、卿が禁足をうけ、組合議長の代読ですまされた。当時英国では出版できず、米国で一九一七年出版され、英国では一九六二年(松下注:1963年の誤り)はじめて、『政治理想』(Political Ideals)なる題名で出版された。この珍らしいいきさつをもつ同書は、英国で約世紀近く遅れて初めて出版されたにも拘わらず、その内容の含蓄たるや、広くかつ深く、昭和四十一年の日本の政情に照しても、一向にその意義深さを失っていないので、驚くばかりである。)
 その中の一文を引用する。
「巨大な組織団体は現代生活において、避けられない要素であり、それら組織団体を廃止しようと、例えば、ウィリアム・モリスのような一部の社会改良家たちのように、目指すのは無益なことである。これらの組織団体が個性保持を一層困難にしているのは真実である。しかし、必要なことは、組織団体と最大限に個人の創意を生かす余地とを一体化する方法なのである。
 この目的に向う非常に重要な一つの措置は、一つ残らずの組織団体の運営を民主化することであろう。」
 こう読んでから、私は何かスッキリした気持になった。
 なるほど、人間は、たとえ戦争や天災があっても、人口増加を客観的絶対条件とする環境に生きる運命下に置かれている。それだけではない。人類の歴史は、見方によっては、民主化の歩みでもある。基本的人権と生存権との肯定は、今や人間の生き方や政治論議の大前提的要素となっている。そうなると、人間を組織し、集団的に扱うことが能率を高め、人権と生存権との保証にそう道となる。そして、集団組織の能率化→分業化→細胞化→定型化…の路線を,人間が日常歩むのも亦、必然的連鎖反応と言える。
 しかし、人間という生物はわがままである。(個体的存在の必然かも知れないが、)自分の言い分が通ると、自分の気持が生かされると、生甲斐を感じたり、積極的に自発的に活動的になり、個性的になる面をもち、また、創意も生れ活発になる。これも無視できない現実的要素として厳存している。(政治とは人間に生き甲斐を感じて働かせる技術工夫かも知れないが、)人間が調和的に生きるには、(また)能率的に暮すには、その団体か、集団がそれにふさわしい条件をそなえている必要があろう。
 集団の能率保持向上のためには、構成員・各細胞の若々しさ、生甲斐を感じた活動、創意に満ちた環境などが望ましい。しかし、人間は千差万別、十人十色であるから、調和総合のしくみも必要となる。ここに民主主義を育成しなければならない事情が出てくる。
 たとえ、生きるために、客観的諸条件と要素との故に、必然的に、人間が細胞化されても、そこに、別なしくみの要素が生かされていると、人間は細胞化・定型化されるだけにとどまらず、主体性をとりもどした生き方も可能になる。
 だから、小粒に定型化しているのは、老化・硬化した組織化の中に置かれ放しの人間の場合かも知れない。骨抜きにされた人間の集団にあぐらをかいた組織の統率者は、最低線に追いつめられた人間の最後の抵抗としての反発に遭うと感情的に対立するしかできないことが多い。
 日本でも、昔から、上意下達、下意上達、あるいは、「万人をしてその所を得しむ」ということばが口にされている。
 上意下達は、組織団体の目標の提示である。その目標達成は組織体総員の活動による。
 下意上達は、目標達成の方式・技術の提示である時にこそ正しい在り方を示す。下意上達を生かしているところでは、小粒な人間の数をなげくことも少く、少くとも、組織構成者には活気と創意とがみなぎる。時と所との如何を問わず、紛争の陰には、必ず、この論理関係が具体化されてない事情がある。
 「近頃の人間は……」という表現は、「雨が降ると道がぬかるんで仕方ない……」という言い方に似たところがある。あたり前のことを言うだけで、時と場合によっては、言うだけ無駄であろう。それよりも、道の排水をよくするか、何とか工夫するところに発言の意義も生かされる。現象を歎くだけで、因果関係をつかんだ認識ではない。尤も、このことはあの表現だけに限らず、パトス的言語を使う人間と、ロゴス的言語を使う人間との、物事の認識の仕方の差から出ることかも知れない。
 だから、「近頃…」という言葉を聞くと、ラッセル卿の言葉を想起するようになった。