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牧野力 教授 追悼 -1994年4月6日 (松下彰良)

牧野アルバム帳(From late Prof. Makino's album)
本ホームページ掲載の牧野教授論文等

* 以下は、牧野力教授(1909-1994)の告別式で列席者を代表して松下がお別れの言葉を述べたもの。(ただし、牧野夫人からの急な話で、メモなどなく即興であったため、表現は多少違っているかもしれない。)

 牧野先生は、一貫してラッセルの研究、ラッセル思想の普及に努めてこられました。

牧野力教授(Late Prof. Makino)の肖像写真  ラッセルの著作の邦訳はかなり出版されているが、時代の移り変わりとともに現在では必ずしも適切な訳し方ではなくなっている。そこで、ここ数年、先生は、ラッセルの翻訳を全て訳し直して、現代の言葉使いに直して若い人が読みやすいようにしないといけないとおっしゃていた。改訳の仕事を少しづつやっていきたいとおっしゃっておられたので、長生きされて、ラッセルの邦訳の改訳版をどんどんだして頂けることを期待していました。

 私は、途中3、4年中断しましたが、通算10年以上、「ラッセルを読む会」という読書会をやっていますが、先生にラッセル関係の資料や読書会の案内状をお送りすると、大体電話をかけてきてくださった。ところが、この2ケ月ほど、先生から連絡がなく、体調をくずされたのだろうかと、心配していた矢先のことでした。(牧野先生とは、松下が早稲田に入った昭和45年以来おつきあいして頂いた。)

 最近先生は、東京大学の近くの文京女子短期大学で英語を教えられていた。この4月からは、週1回、上福岡にある文京女子大学の方に講義にいかれるとお聞きしていた。80歳を越えても、耳が少し不自由になられた以外は、最近までとても元気でいらした。
 生前、自分が死んだらラッセル関係の資料は全てあげるから、松下がラッセル関係の資料を寄贈して創ってもらった早稲田大学教育学部教員図書室「ラッセル関係資料コーナー」に加えてほしい、と言っておられた。

 先生のご遺志をつぎ、是非ラッセル関係資料コーナーを日本におけるラッセル研究資料センターに発展させていきたいと想っています。

 先生のご冥福をお祈りします。

ラッセルと20世紀の名文に学ぶ英文味読の真相39 [ 佐藤ヒロシ ]



牧野力教授略歴
(牧野氏写真)
・1909年(明治42年) 青森県生
・1933年(昭和8年) 早稲田大学英文科卒業
・1963年(昭和38年) 早稲田大学政経学部講師
・1964年(昭和39年) 早稲田大学政経学部助教授
・1965年(昭和40年) 日本バートランド・ラッセル協会設立と同時に常任理事
 *ラッセル協会事務局は、当初短期間「理想社」にあったが、それ以外は、牧野教授定年まで、牧野研究室におかれた。
・1965年(昭和40年)?早稲田大学政経学部教授
・1980年(昭和55年) 早稲田大学定年退職
・1994年(平成6年4月6日) 逝去

[牧野力「今は昔」(『エプシロン(Epsilon)』(早稲田大学政経学部一Eクラス文集)v.1(1961年4月刊))より抜書]

 ・・・。 私の卒業当時(昭和8年)もそうだった。(もっとも、当時は1960年代とちがって不景気だった。「大学は出たけれど」という言葉が巷にころがっていた。履歴書の5,60通書くのは当たり前と思われていた。1ケ月三食で下宿代30円。授業料は年間120円だった。英文科60名の中、その年に就職した者約2,3割。NHKの集金係も羨ましがられ、手弁当で働く劇場の助監督になった」男も。・・・。

 サテ、私も、7、8人と(一緒に)東京朝日新聞社を受けることにした。・・・。学校当局が、大先輩で、同社の大幹部某氏を招き、彼はわれわれ後輩にこんな話をしてくれた。新聞記者になるには、・・・(身体強健たること、工夫力かウィットのある素質、学者並みの研究心と不抜の持続力の3ケ条)。(私は一次の筆記は通り、二次面接で落ちた。)・・・。

 こう言われてみると、この3ケ条は、敢えてジャーナリスト志望者に限らないような気がする。・・・。大学生活は、片や就職準備、レッテル獲得、専門技術習得、・・・にありと、その狙いを指摘する人もいる。しかし、私は、生涯取り組めそうな、真剣になれる問題を見つけることこそ、(その方面と問題とかは何であってもいいい)入試準備の苦労と高い月謝と4年間の生活とに意義を与えるものと思う。何でもいい、生涯取り組む問題を自分の内側からの呼び声に応えて、掴んでほしい。

 諸君、元気で楽しい想い出と青春を・・・。