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石本新「バートランド・ラッセルと『数学原理』」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第12号(1969年4月)pp.9-11.
* 石本新氏は当時,東京工業大学教授
ラッセルが住んでいた,ロンドンのチェルシー地区のフラットの Blue Plaque の画像
 バートランド・ラッセルというと,人によってそのイメージが異なるのは当然であろう。ではあるが,なんといっても90才をこえてもなおかくしゃくとして平和運動の第一線にたっているラッセルのイメージがいちばん強烈であろう。しかし,悟りをひらいた東洋的哲人といった面影もないわけではないし,さらに,中年以上の人にとっては1930年代のおわりにおけるラッセルの結婚観に由来するニューヨーク大学での受難事件(注:1940年)が思い出されて,かなり極端な道徳観の主張者としてのラッセルの姿もうかびあがってくるかもしれない。また,第一次大戦中における果敢な反戦運動家としてのラッセルも,私たちの記憶に深くきざみこまれている。
 しかしながら,私たち論理学を専攻しているものにとっては,ラッセルというとやはりその主著である『数学原理』」(Principia Mathematica)が思い出され,ラッセルのライフワークはやはりこの『数学原理』であったと考えたくなる。(松下注:右上写真は,ラッセルが1911年から1916年まで住んだ,ロンドンのチェルシー地区のフラットにかがげられた Blue Plaque/左下写真は,ラッセルが晩年,ロンドンに出てきたときに住んだ Hasker Street 43番地のフラット玄関前に立つラッセルと日高一輝氏。2枚目写真出典:講談社刊の日高一輝著『人間バートランド・ラッセル-素顔の人間像』)
ハスカー・ストリート43番地にあるフラット前に立つラッセルと日高氏の画像

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 ラッセルの生いたちやその伝記についてはいまさらいうまでもないことであるが,『数学原理』が完成した年,つまり,1913年ごろを境としてラッセルの生涯は二分されるように思われる。前半生,すなわち,『数学原理』が完成されるまでのラッセルの関心は何といっても論理学や数学の基礎をめぐる問題に専ら指向していたといってよい。この時代にはドイツの社会民主主義に関する著作などもあって,単なる論理学者であったといいきることもできないが,やはりこの時期におけるラッセルは象牙の塔にこもる純枠のアカデミッシャンであったといえよう。そして,1903年に発表された『数学の原理』(The Principles of Mathematics)や,いまでも論議の的となっている「記述の理論」(1905年)などを経て『数学原理』においてクライマックスに達する論理学や数学基礎論に関する一連の労作が,ラッセルの哲学者としての位置を不動なものにしたといっても過言ではあるまい。実際,ボヘンスキーも指摘しているように,これらの業績,とくに『数学原理』は20世紀におけるヨーロッパの思惟のもっとも重要な著作の一つに数えられるであろう。

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 『数学原理』以後のラッセルの活動を以前のそれにくらべると,一つの主題にうちこむというよりは関心の幅が広まっていくのが特徴である。社会哲学や平和運動の領域におけるラッセルの活動については,ラッセル協会の会報などにおいても数多くの解説があらわれているから,理論的な哲学に話を限ると,『数学原理』以後のラッセルの哲学はある意味においてそのふえんと応用であるともいえよう。そして,『数学原理』発表後1920年ごろまで続くいわゆる論理的原子論時代のラッセルの哲学は,このような哲学なのである。論理学的原子論の哲学は通常ウイットゲンシュタインの影響のもとに形成されたということになっているが,それがないというわけではないが,やはり『数学原理』の影響のほうを私は重くみたい。皮肉ないいかたをすると,ラッセルは論理学をさきに作って,それにあわせて哲学をあとから作ったといえそうである。実際,このことは論理的原子論時代における代表的著作である『外界に関する私たちの知識』(Our Knowledge of the External World, 1914)を繙いてみれば直ちにわかることである。(この書物の筆者による翻訳は近く中央公論社刊「世界の名著シリーズ」の一部として発表される予定である。)たいていの哲学者は哲学から論理学へと進んでいくのであるが,ラッセルの場合は逆であったということは興味ぶかいことではなかろうか。
 では,『数学原理』とはいかなる書物であろうか? このことについてはすでにいろいろの記号論理学入門書における解説もあるし,さらに,ラッセル自身の筆になる『数理哲学序説』(Introduction to Mathematical Philosophy, 1919)というすぐれた解説書もあるからいまさら説明するまでもないことであるが,念のため簡単に蛇足を加えておこう。
 まず第一に指摘しなければならないことは,『数学原理』という全3巻二千数百ページにおよぶこの大著が一見むずかしそうにみえてそれほどむずかしい書物ではないということである。むりにおすすめするわけではないが,ラッセルの論理学を勉強したい方は,『数学原理』の第1巻をとにかく手にとってみられたらよかろう。(最近ペーパーバックの廉価版(注:右の表紙画像がそれ)も出版されているから以前にくらべて余程入手し易くなった。)もっとも,1925年に執筆された第2版に対する序文はあとまわしにしたほうがいいかもしれない。というのは,この序文では『数学原理』第1版出版後に展開されたヒルベルトの形式主義,ブラウワーやワイルの直観主義などに対する批判が,『数学原理』の成果をふまえて述べられているからである。
 本文の第1ペ一ジから読み進んでいくとわかることであるが,『数学原理』という書物は読者に対していかなる予備知識をも仮定しないという立てまえになっている。であるからこそ,『数学原理』は,むずかしい書物ではないといったのである。それどころか,このことは『数学原理』の性質からいってむしろ当然のことなのである。なぜならば,その名称から類推されるように,『数学原理』は数学の原理を述べている書物であるから,それに基づく派生的な知識を予め前提とすることは原理上できないことだからである。したがって,解析学とか集合論といった数学がわからなければこの書物がわからないということはないはずである。といって,論理学や数学におけるある程度の成熟が望ましいということはいうまでもない。しかし,理窟の上からいうと,『数学原理』を読むのに予備知識が必要でないということにはかわりない。
 もう少し具体的に『数学原理』の内容を紹介しよう。当然のことであるが,『数学原理』は,いわゆる言明算,すなわち,言明の構造にたちいらない言明相互の間の関係を明らかにする論理学におけるもっとも基本的な部門の展開からはじまる。次いで,述語算の展開となるのであるが,これに基づいて算術が次第に構成されていく。そして,通常ペアノの公理とよばれている算術の公理の導出をもって第1巻がおわることとなる。ある論理学者が論理学のむずかしさと同時にある意味でのばかばかしさを冷笑するために,2に3を加えると5になるといったことを証明するのに700ページも必要だといったのは,『数学原理』第1巻のことである。このようにして展開された算術に基づいて解析学を展開するのが続く第2巻と第3巻の任務であるが,これに関する『数学原理』の論述はある意味において実験的である。大ざっぱにいうと,解析学までの古典数学が記号論理学を用いて展開できるということが実験的に明らかにされたわけである。このような実験はラッセルの師にあたるフレーゲによってもすでに企てられていたことであるが,ラッセルがホワイトヘッドと協力して企てたこの実験によって近代論理学,すなわち,記号論理学の能力が多くの学者によって認識されるようになったという事実は否定できまい。こういった実験はいまではすでに常識となっていて,教科書的な解説を別とすれば再び繰り返す人もいないが,ほとんど初めての試みとしてはたかく評価されなければならないだろう。
 さて,ここで忘れてはならないことは,『数学原理』がヒルベルトなどのいう形式主義の立場からの形式的な公理系として展開されているのではないということである。『数学原理』をそのような意味のない公理系として理解することはできないことではないが,少なくとも,ラッセルの意図がそうでないことは明らかである。ラッセル自らが使っていることばではないが,『数学原理』は1つの存在論の体系であるといったら,その性格がきわだってくるであろう。存在論とはアリストテレス以来西洋哲学の伝統であって,いまさら解説の必要もあるまいが,要するに,存在者が一般に満足しなければならない法則について研究することを目的とする哲学の一分科である。したがって,あらゆる科学,あらゆる学問の根底に横たわるのが存在論であると,アリストテレス主義者は考えるのである。
 このことは第1巻における算術の公理の導出においてもはっきりとあらわれている。よく知られていることであるが,形式主義者は,多くの場合,算術の公理を導出するということはしない。そして,予め与えられた算術の公理を無条件でうけいれるのである。これに対して,ラッセルは,算術の対象である1,2,3といった自然数を単なる記号としてではなく,ある種の存在者を指示している意味を担う記号として取り扱う。たとえば,2という自然数はすべての対をメンバーとする集合であると定義される。また,自然数3はすべての3つ組の集合と考えられる。他の自然数も同じようにして定義される。これが有名なフレーゲ=ラッセル式の自然数の定義にほかならないが,このような定義が存在論を前提としてはじめて可能であるということも明らかであろう。たとえば,自然数2の定義においては,まず,任意の対が存在者として存在すると同時にそれらの対をすべて集めて構成される集合も存在者として存在していなければならないからである。ところが,こういった定義が伝統的存在論の場合のように,あまり厳密でない形で与えられるのでなく,一応形式的な厳密さを保って与えられていることが,古い存在論と『数学原理』の指向する存在論との間の大きな違いである。このように考えると,形式的な体系としての『数学原理』のすぐれた点がはっきりしてくる。実際,形式的な公理系と考えると,『数学原理』は存在者の間に階型の相違を認めるいわゆる階型理論に基づく公理的集合論の一種であるということになる。しかし,ラッセルがそのような解釈を認めるかどうかは,はなはだ疑わしい。ラッセルの真意はやはり,『数学原理』は近代的な存在論にあるということにあろう。いうまでもないことであるが,ラッセルは単なる論理学者ではなく,存在者を絶えず見続けている哲学者なのである。いいかえると,存在者の構造を明らかにするために論理学を研究している哲学者にほかならない。
 では,このように存在論,つまり,哲学の書物であると同時に技術的な論理学の書物でもある『数学原理』は,その後の哲学や論理学にいかなる影響を与えたであろうか? 大ざっぱにいうと,第2の(技術の)点に関しては,『数学原理』はすでに過去の書物てある。もっとも,1930年ごろまでは,論理学の技術に関しても『数学原理』を繙く人が多かったことは事実であろう。そして,そのころ論理学の研究にはいって現在では元老と目されているタルスキー,チャーチ,クリー二ー,ゲーデル,クワインといった論理学者が,『数学原理』をなつかしげに回想するという事実もこのことを物語っている。ということは,この人たちが論理学に足をふみいれた当時,すなわち,1920年代には,『数学原理』だけが近代論理学の標準的な,といっても,厖大すぎるきらいはあるが,ともかくほとんどただ一つの教科書だったということである。しかし,このころからようやく『数学原理』に内在する多くの欠点が指摘されるようになったことも事実である。くわしいことは省略するが,1940年に発表されたチャーチの理論のごときは,『数学原理』の不明確さを訂正し,ラッセルの階型理論をほとんど最後的に完成した画期的な業績であるといえよう。というようなわけで,ラッセルとかたく結びつげられている階型理論を研究するに際しても,『数学原理』に直接あたるという人は現在では,ほとんど見出されないはずである。つまり,『数学原理』は,すでに超克された読まれざる古典としての地位を保っているにすぎないのである。
 しかしながら,哲学としての『数学原理』までが,完全にのりこえられ,形骸化してしまったであろうか? 決してそうではない。ラッセル自身の見解とはやや異なるかもしれないが,「数学原理」の背後にある存左論は20世紀に突如として考案された哲学というよりも,むしろプラトン,アリストテレス以来の西洋哲学正当派の考え方の総決算ともいえる壮大な試みなのである。個々の科学をこえて存在者一般に関する法則を求めるという西洋哲学の伝統を近代的な装いのもとに発展させた「数学原理」は,このような意味において決して古くなってはいない。技術の細部に関しては古くなったけれども,哲学書物としての『数学原理』はこれからもますます研究されなければならないであろう。実際,こういった立場から『数学原理』をみなおし,それから学ぼうという傾向が最近とみに活溌になりつつある。そして,ポーランド学派のレスニエウスキー,ボヘンスキー,あるいは,西独ミュンスター学派のショルツなどのこの分野における研究は,これからも注目されなければなるまい。(了)