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A.エステルリング「バートランド・ラッセルに対するノーベル文学賞授与に際しての歓迎演説」

* 出典:『ラッセル;チャーチル』(主婦の友社、1972年。ノーベル賞文学全集・第22巻)pp.9-10.
* A.エステルリング: スウェーデン・アカデミー常任理事
★日本語がおかしい(誤訳ではないか)と思われるところがありますが、手元に原文がありませんので、そのまま(=大竹勝訳)掲載します。
* 写真(ノーベル文学賞授賞式)出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.

(1950.12.10:ノーベル賞受賞式にて)
 陛下、閣下(=ラッセル卿)、淑女、紳士 各位

 バートランド・ラッセルが1946年(松下注:米国では1945年刊。英国版は1946年刊)、すなわち74歳の時に上梓しました西洋哲学についての大著(A History of Western Philosophy)は、数々の彼独特の思索を含んでいますが、これはラッセル自ら、その長年にわたる、苦闘の生涯をどのようにわれわれに見てもらいたいかという考えをわれわれに伝えています。ソクラテス以前の哲学者たちについて語っているある個所で、ラッセルは次のように言っています。
ある哲学者を研究するのに正しい態度というのは、尊崇でも軽蔑でもない。まず一種の仮定的共鳴を持つことであり、(そのようにすれば)やがてはその哲学者の理論を信じることはどんな気がするかを知ることが可能になる。その時初めて批判的態度の復活があり、その態度は、これまで支持していた意見を放棄する人の心境にできるだけ似るべきである。」  同じ著作の別の箇所で彼はこうも書いています。
「哲学が投げかける疑問を忘れることも、疑問に対する明白な解答を発見したと自分を説得することも良くない。確実だと思い込まず、しかも躊躇によって麻痺されず生きる道を教えることが、おそらく、われわれの時代に哲学がそれを学ぶひとびとになすことのできる主なことであろう。」(注:直訳調で変な日本語になっているが、要するに、哲学の役割・任務について述べられている。)
 彼の卓越した知性によって、ラッセルは半世紀を通じて、公開討論の中心でありました。虎視眈々として不断に闘いにそなえ、今日にいたるまで活動的で、自分の背後には堂々たる規模の著作の生涯をうちたてています(←変な日本語!)
 人間の知識に関する科学と数学的論理学に関する彼の著作は画期的なものであり、力学におけるニュートンの基本的研究成果にも比較されてきました。それでもなお、ノーベル賞(委員会?)が本来認めようとしましたのは科学のいろいろな特殊部門におけるこうした功績ではありません。われわれの見地から大切なことは、ラッセルが彼の著書の数々をかくも広範に一般大衆に向け、そうすることによって、一般哲学に対する興味を活気あらしめたことに、かくも顕著に成功してきたということであります
 彼の全生涯の仕事は常識の真実についての示唆に富む弁明であります(←変な日本語! 「常識の真実」は何の訳語か?)。哲学者として、彼はロックやヒューム以来の古典イギリス経験論の線を追求しています。観念論的ドグマに対する彼の態度はきわめて孤高なもので、しばしば反対者の立場のものでありました。ヨーロッパ大陸に展開された偉大な哲学体系を彼は、いわばイギリス海峡の冷たい風の吹きすさぶ、特殊な見通しをもって眺めるのです。彼の鋭い、健全な良識と、彼の透徹した文体と、大真面目の最只中での機知とをもって、彼は自分の著作のなかで、エリート作家たちだけに見出されるような特徴(?)を示したのです。この分野における彼の著作の最も簡単な概説を行なうことすら時間が許しませんが、これらの作品は、もっぱら文学的な観点からも興味深いものであります。それには、『西洋哲学史』(1945)、『人間の知識』(1948年)、『懐疑論』(1928年)および素描『わたしの精神的発達』(『バートランド・ラッセルの哲学(1951)』中に掲載)(ラッセルの My Mental Development, 1941 のことを言うのだろうが、そうであれば「精神的発達」ではなく、「知的発展」とすべきであろう。因みに、The Philosophy of B. Russell, by P. A. Schilpp の初版の発行は1944年)のような著作を挙げるだけで十分でしょうが、社会の今日の発展が伴うほとんどすべての問題についてのひとしく重要なたくさんの著作が加えられねばなりません。ラッセルの見解や意見は多彩な要素によって影響されていて、容易に要約することはできません。彼の有名な一門はイギリス政治におけるホイッグ党の伝統を代表しています。彼の祖父はヴィクトリア朝の政治家ジョン・ラッセルでありました。幼年の時代より自由主義の思想に親しんだのですが、やがて彼は、台頭する社会主義に直面し、それ以来、彼は独立した批評家として、社会のこの形態の利点と弱点とを比較考量してきました。彼は終始、熱心に新官僚主義の危険をわれわれに警告してきました。彼は集産主義に反対して個人の権利を擁護してきました。そして彼は産業文明を、生きるという単純な幸福と悦びについての人類のチャンスをますます脅かすものとみなしています。1920年にソ連を訪問して以来、彼は強く、決定的に共産主義に反対の立場をとりました。他方、その後の中国訪問期間中、中国の教養ある階級の、静かな、平和的ムードに深く魅力を覚え、乱暴な侵略に荒廃した西欧に、手本としてそれを推薦しました。
 ラッセルの著作には抗議の種となるものが多々あります。多くの他の哲学者たちとはちがって、彼はこのことを著述家の当然な、急務の一つと心得ています。もちろん、彼の合理主義をもってしても、すべての面倒な問題を解決するものではなく、たとえ哲学者が進んで処方箋を書くにしても、万能薬として使用することはできません。不幸にして、今日明らかにいつの世にもそうでしょうが- 知的分析をのがれ、制御されることを拒む不可解な力があります。かくして、たとえ、ラッセルの仕事が、もっぱら実用的見地から、2つの世界大戦を経験した時代にあって、ほとんど成功しなかったとしても- たとえ、大体において、彼の思想が烈しく反対されたかのように見えるとしても- それでもなお、われわれは、この反逆的真理の語り手の不屈の勇気と、自分の確信を表現する一種のさわやかにして熱烈な力と陽気な明朗さを讃美しなければなりません。しかも彼の確信は日和見主義に動かされたものでは絶対にないばかりか、しばしばまったく不人気なものですらあったのです。哲学者としてのラッセルを読むことは、大きな声の、元気のいい調子で、大胆な逆襲や、鋭い反論をする、ショーの喜劇の無遠慮な主人公の科白を聞くのとまったく同じ楽しみを与えます。

ラッセルの言葉366
 結論として、ラッセルの哲学は、最善の意味で、アルフレッド・ノーベルが彼の賞を設定した時に考えていた欲求と意図とをみたすものであると言えるでありましょう。2人の人生についての見解には驚くべき類似点があります。両者とも、懐疑論者であると同時にユートピアンであり、両者とも自分の時代に暗い見方をしていましたが、それでもなお両者とも人間の行為に論理的標準を得ることの可能性についての信念を固守しています。スウェーデン・アカデミーはノーベル財団創立50周年にあたり、バートランド・ラッセルを、われわれの時代の合理性と人間性の輝かしき代弁者の一人として、また西欧における言論の自由と思想の自由との勇敢なる擁護者として称(たた)えるに際し、ノーベルの意図した精神にのっとって行動するものと信じます。

 閣下(=ラッセル卿)-、ちょうど200年前に、ジャン・ジャック・ルソーは「はたして芸術と科学とは道徳を改善するために貢献するところがあったか」との質問に対する彼の有名な解答によって、ディジョンのアカデミーが与えた賞を授与されました。ルソーは「ノー」と答えました。そこでこの解答は -大真面目なものではなかったかもしれませんが- とにかくきわめて重大な結果をもたらしました。ディジョンのアカデミーは決して革命的な目的を持ってはいませんでした。このことはスウェーデン・アカデミーについてもそうでありますが、今やアカデミーは、閣下の哲学的著作が明らかに道徳的文明に役立ち、最も顕著にノーベルの意図した精神に答えるというその理由からして、閣下の哲学的著作に報いることを選んだのであります。われわれは閣下を人間性と自由思想の輝かしき擁護者として称えるものであります。われわれとしましては、ノーベル財団創立50周年のよき日にあたって、閣下をお迎えすることを悦びとするものであります。この挨拶をもって、わたしは閣下が1950年度の文学部門のノーベル賞を国王陛下の手からお受け取りくださいますことをお願いします。

 宴会の席上、スウェーデン王立科学院の会員ロビン・フォレオスが次のように評した。「親愛なるハートランド・ラッセル教授、われわれはあなたをわれわれの時代の最も偉大で最も影響力のある思想家の一人として迎えます。そしてあなたが別の機会に卓越した同胞の標準とみなされた4つの特徴、すなわち活力、勇気、感受性、知性の持ち主であられることに敬意を表します。」

ラッセルのノーベル賞受賞演説
(邦訳は、玉川大学出版部刊『ヒューマン・ソサエティ』のなかにあり)