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江上照彦「ラッセル協会のことなど」
『回想・笠信太郎』(笠信太郎追悼集刊行会、1968年11月刊、非売品)、pp.271-272.


 笠先生に親炙(しんしゃ)する機会が急にふえたのは、昭和四十年一月二十日、早稲田大学の大隈会館で「日本バートランド・ラッセル協会」が設立され、先生を会長に推戴してからだった。時どき東京で理事会があったし、その帰りは先生が茅ヶ崎で私が藤沢だから、湘南電車に同席して、お話をうかがうことが多かった。
 この協会というのは、名の通り、「ラッセルの思想の研究、理解、普及を目的とし、あわせて世界の平和および人類の幸福に貢献しようとする」学会で、会報発行のほか毎年朝日講堂(=朝日新聞社講堂)で講演会、蔵前工業会館で研究会を催すなど、小さな組織ながらけっこう面倒だった。ところで、先生の会長ぶりは決して名称だけというのでなくて、こまかな雑務から貧乏世帯のやりくりまで、みずから配慮されるというぐあいで、これには頭がさがった。
 その年の三月八日、私は先生のおともをして、小田原市板橋の八旬荘主人・長谷川如是閑先生を訪問した。如是閑翁を協会の顧問にお願いするのが目的だった。「しかし、先生、お気がむいた時でけっこうですから」と、笠先生は持前の遠慮深さで、そう言われた。はたに控えていた私は、うやうやしい先生の様子を見て、上には上があるものだ、先生の上にまた先生がある、と感銘した。
 さて、ラッセルと如是閑にはだいぶ共通点がある。実は昭和三十八年三月に私自身が、中日新聞の催しで、このテーマ(「ラッセルと如是閑?」)で如是閑先生と対談したことがあったわけだが、この訪問を思い立たれた笠先生の胸中にも同じような感じがあったのだろう。事実、その後昭和四十二年四月の会報第七号には「ラッセルと如是閑」という先生の文章があらわれたが、まことに警抜かつ軽妙な名文で感嘆した。同じ事を書いても、こうも段が違うものかと、つくづく自分の不敏を思い知らされたものだ。
 昭和四十二年の春から夏へかけて、先生は欧米を回ってこられた。それと交代みたいに、今度は私がヨーロッパヘ出かけて、帰って十一月に久し振りに協会の研究会のおりにお目にかかった。会場の隣りのレストランの地下室で、東大の碧海、東工大の東宮、早大の牧野各教授ら理事諸公と一緒に先生をかこんで食事をした。私は先生と同じハヤシライスをたべた。これが先生とわれわれとの、少なくとも私との最後の晩餐になった。"死は既知数"というが、間近かに迫っているそれがわからないのだから、人間とはかなしいものである。(ラッセル協会理事、相模女子大教授)