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水口志計夫「(マクマスター大学)ラッセル図書館訪問記」
『ラッセル協会会報』n.20(1972年1月)pp.11-15.

*水口志計夫氏(1926-2005/08/06)|ミズグチ, シゲオ)は当時、立教大学教授(アメリカ文学専攻)。探検・冒険小説翻訳の第一人者で、訳書に「コン・ティキ号探検記」などがある。


 一九七〇年から七一年にかけて、一年間、アメリカの作家セオドー・ドライサー研究のため、ドライサーの原稿その他を所蔵する(ドライサー・コレクションを持つ)フィラデルフィアのペンシルバニア大学に留学した。
 一九七一年の八月、帰国の途中飛行機で寄り道をしながら見物するまえに(?)、グレーハウンドのバスでナイアガラとボストンを見物することになった。(松下注:どうやら「飛行機」で見学旅行をする前に、「バス」で見学旅行をした、ということらしい。)
 バートランド・ラッセルの原稿その他を買い取ったマックマスター大学のあるハミルトンはナイアガラからもっとも近いカナダの都会である。その後マックマスター大学でもらった『キャンパス・ガイド』によればナイアガラからの距離は四二マイルにすぎない。
 旅行の立案、調査はすべて家内の役目ということにしてあったが、わたしは訪問地にマックマスター大学を入れることを希望した。しかしそれにたいして家内はひじょうな難色を示した。一つには、フィラデルフィアの日航の事務所に日本人の事務員がいて日本語で話が通じるというのでそこをエージェントに選んだのだが、そこでナイアガラとハミルトンのあいだには公共の交通機関が全然ないからレンタカーをして行けと言われたからであり、一つには、アメリカは交通費とホテル代がひじょうに高く、ふところのつごうからすこしでもむだを省きたかったからである。家内は「どうしてもマックマスターに行かなければならないのですか」と、マックマスターに着くまで、何度も何度もくり返して言った。
 バッファロー、ハミルトン間は六〇マイル、グレー・コウチ・ラインという会社の長距離バスが走っている。カナダ国境からハミルトンまでは一望の原野と自然林で、広いアメリカを見慣れた目にもいっそう広く感じられ、「カナダの大地」という実感がひしひしと迫って来る。
 ハミルトンは人口三〇万、周辺の人口を合わせると四六万以上、大規模な鋼鉄、電気工業の中心地で、七五〇以上の工場があり、製品は多岐にわたるが、とくに製鋼能力はカナダの過半数を占め、ハミルトンの港は五大湖最大の港の一つで、取扱いトン数はカナダで三番日に位する。『ラッセル図書館便り』第二号、三ページにジャック・ピット教授はハミルトンを「陰気な荒涼とした市」と書いているが、西半分の一部だけを見たわたしたちには、アメリカの都市よりもさらにゆったりした、清潔な市として好ましく感じられた。
 マックマスター大学の起源は、一八三〇年代のカナダにおける浸礼教徒(バプチスト)の伝道にさかのぼる。一八八七年に、トロント・バプテスト・カレジとウッドストック・カレジが合併して、トロントでマックマスター大学となった。ウィリアム・マックマスター上院議員(1811-1887)の名を取ったものである。ハミルトンヘの移転は一九三〇年に起こり、一九五七年、同大学はバプテスト神学部、現在の神学校と提携する無宗派の大学となった。以後約一〇年がかりの拡張計画は着々と実を結び、一九六七年には、三つの主要な学部とマックマスター神学校に再編成された。文学部は人文科学、社会科学、商学、社会事業、体育の各科、理工学部は理学科、工学科、健康科学部は医学科と看護学校からなる。健康科学センターは現在建築中である。理工学部はカナダの大学中トップクラスに位置し、実験用原子炉、大きな研究用コンピューター、N粒子加速器を有するが、原子炉は英連邦(英本国・北アイルランド・各自治領・属領植民地から成る連邦)中の大学で最初に建造され、カナダの大学では唯一のものである。
 キャンパスは市によって提供されたウェスト・エンドのパークランド(ところどころにまばらな樹林のある草地)にあり、四〇以上の建物が散在しているが、その建物の一つ一つが実にりっぱで、一つ一つが異った形をしていながら、全体として一種の調和が保たれていて、すばらしいの一語に尽きる。アメリカの大学にはキャンパスと建物のりっぱなものが多いが、マックマスターは、その方面で有名なプリンストン大学やスウォースモー・カレジ以上であった。
 わたしたちはカナダの学校はマックマスターしか見なかったが、どこの学校もりっぱなものであるらしい。金子操『留学と私−カナダからメキシコまで−』(英友杜、1966年)には、カールトン大学に関連して、
「・・・真白い帆をはったヨットの浮かぶ湖の縁を通り、こんもりとした緑の中を流れる二本の河にはさまれた Parkwayを走ると、右手の小高い所に、超近代的な建物が見えてきた。ジョンは、それが二年間勉強する大学だと教えてくれた。実に素晴らしかった。東京付近でいうなら、奥多摩の鳩の巣あたりの丘の上に大学を建てた格好である。しかし、それが市の中心から車で十分ほどの所。後でわかったことだが、カナダ国中どこへ行っても、一番立派でしかも恵まれた環境にあるのは学校だった。確かに、カナダという国は、裕福でありながらも、教育の面では、他の先進国に遅れていた。ヨーロッパ各国からの移民で出来上がった国にしてみれば、無理もない話であろう。カナダは一九六七年で建国百年を迎えるわけであるが、戦後、国作りに最も重要なことは何かと考えた末に、それは教育であると国民が気がついた。以後、若者のための教育施設の改造、新築、教育制度の改良等、国を挙げて力を注ぎ始めた。・・・」(一六ページ)
 とあるし、『学鐙』一九七一年一〇月号の「世界のシェイクスピア会議」で、中島文雄教授はブリティシュ・コロンビア大学(UBC)について
「大学のキャンパスの広いこと、車でしばらく走りつづけて、やっとわれわれの泊る宿舎に到着した。これは六階建のがっしりした建物で六棟ある。学生寮なのであるが清潔で、簡素なホテルといったところである。……」(一〇ぺージ)
 サイモン・フレイザー大学について
「この大学は一九六五年にはじまった新しい大学で、UBCにくらべれば小さいが、敷地といい建物といい、実にのびのびとして宏壮である」(一一ぺージ)
 と言って、
「・・・カナダの大学の立派さや財政のゆたかさは驚くばかりである。文化的な施設や活動を思うと、日本はGNPが自由世界第二位などと言えたものではない。」(一三ページ)
 と書いておられる。

 そのカナダの大学の中でも、マックマスターは傑出したものであるらしい。わたしはフィラデルフィアのある聖公会の教会の中にあるフィラデルフィア・アダルト・ベーシック・エデュケーション・アカデミーで英会話の個人教授を受けていたが、フィラデルフィアに帰ってから、マックマスターのキャンパスと建物の美しさについて話したところ、先生のカーガー氏は、自分のプロフェッサーがマックマスターに行ったことがあり、そこのキャンパスは世界でもっとも美しいと言っていたと言われた。
 マックマスター大学の図書館はミルズ記念図書館という。命名の由来は知らないが、次の小宮隆太郎『アメリカン・ライフ』(岩波新書、1961年)のアメリカについての記述がカナダにも当てはまるのではあるまいか。
「日本とアメリカでは、寄付ということについての観念が大違いのようであります。お金持ちの人が大きな財産を残して死んだとき、日本では大体長男をはじめ家族の者が遺産を分けるのが普通ですが、アメリカでは遺産の三分の一とか半分とかのかなり大きな部分を学校や病院、美術館等に寄付するのがごく普通のようであります。またスタンフォード大学は、まだ若い息子を亡くしたお母さんが息子の記念のために巨額の財産を寄付して、それによって創設された大学ですし、ハーバード大学の中央図書館であるワイドナー図書館(Weidener Library)は、豪華船タイタニック号の沈没で息子を失った両親が、やはり息子を記念して寄付した図書館であります。……」(一七六−一七七ぺージ)
「さてアメリカ人達がすすんで学校や病院などには寄付をする、もう一つの理由は、税金の関係が日本と違うからです。アメリカの所得税法、相続税法では、学校、病院、教会、慈善事業等に寄付したときには、その額が所得や遺産から除かれます。しかも所得税の場合、アメリカでは累進率が非常に高く、日本では高額の所得についても税率は七〇%どまりですが、アメリカの税法では最高税率(課税所得二〇万ドルを超える部分)は九一%に達しています。そこでかりに私がそういう二〇万ドル以上の高額所得者であるとして、さらに百万ドルの余分な収入があったとき、その百万ドルについて九一万ドルの税金がかかり、自分のふところに入るのはわずかに九万ドルにすぎません。ところがこの百万ドルを私が大学に寄付した場合には、その分については税金は一文もかからず、私は小宮隆太郎の名前で私の出身の大学なり私の好きな美術館なりに百万ドルの寄付をすることができるのです。しかもその寄付は私の希望に応じて小宮隆太郎記念館とか、小宮隆太郎記念教授とか、私の名前を冠した各種の建物、教授の地位、奨学金、美術のコレクション、特別の賞金等等になります。大学の建物の中にはそういう名前を冠したものが無数にあります。ですから皮肉にいえばこれは自分のお墓を大学に建てているようなものです。百万ドルだけ余分の収入があったときに、そのうちのわずか九万ドルを自分のふところに入れて郊外の墓地にお墓をたてるよりも、百万ドルをそっくりそのまま使って、自分の名前が大きく刻まれた立派な建物を、人目につきやすい大学の中心に建てた方がはるかに効果的ではありませんか。」(一七八−一七九ページ)
 ミルズ記念図書館の蔵書数は七五万冊である。同図書館の三階は、左翼がバートランド・ラッセル・アーカイヴズ、右翼が貴重図書室になっていて、両者は廊下で結ばれている。
の画像  ラッセルの文書は一九六八年三月二八日にマックマスター大学によって購入された。それを最初に報じたのは、一九六八年三月三一日の『オブザーヴァー』(日曜新聞、ロンドン発行)であったらしい。購入の任に当たったのはウィリアム・レディ(William Ready)教授(Necessary Russell,1969 の著者)で、書誌学の専門家である。
 次に『タイムズ・リテラリー・サプリメソト』が、四月四日(木曜)号、三五五ページの「コメンタリー」欄の最初の項にこの問題を取り上げた。
 次にマックマスター大学の『ライブラリー・リサーチ・ニューズ』(第一巻、第一号、1968−1969年、冬)に、アーカイヴズの司書ケネス・ブラックウェル氏が「ザ・バートランド・ラッセル・アーカイヴ」を執筆した。同氏がわたしに送ってくださったものにはアーカイヴズと訂正が補されているので、その後複数形に改名されたものらしい。
 同『ライブラリー・リサーチ・ニューズ』については『日本バートランド・ラッセル協会会報』第一六号、七ページに触れられており、ブラックウェル氏の写真は八ページにのっているが、現在氏は顔いっぱいにひげをはやされたので、別人の感がある。
 『ライブラリー・リサーチ・ニューズ』の「ザ・バートランド・ラッセル・アーカイヴ」によると、文書を入れた二六のキャビネットとトランクがロンドンからハミルトンに空輸されたという。また同「ザ・バートランド・ラッセル・アーカイヴ」には『タイムズ・リテラリー・サプリメント』の記事が、約三行を除いて全部引用されている。除かれたのは次のようなところである。
 「『ザ・オブザーヴァー』はアーカイヴの値段は二五〇、○○○ポンド以下だったとは考えられないと言う。」
 次に『ダイアログ』(Dialogue)第七巻・第四号、一九六九年、六〇八−六一五ページに、ブラックウェル氏は「バートランド・ラッセル・アーカイヴの哲学者への重要性」(The importance to philosophers of the Bertrand Russell Archives)を書かれた。
 アーカイヴズにはラッセル関係の新しい文献が展示してあったが、わたしはその中にあった抜き刷りによってはじめてそれを知った。ブラックウェル氏に余分があるかどうか聞いたところ、一部に
 To Professor Mizuguchi from the author
という献呈の辞を書いて、くださった。これは、アーカイヴズについて簡潔に紹介したものとしては、わたしの知るかぎりではもっともすぐれたものであることがわかった。これによると、ラッセル文書がカナダに到着するまえ、ロンドンでカタログが作成されたとき、ブラックウェル氏は一年間その仕事をしておられたが、文書のマックマスターへの売却後、レディ教授がそのキャビネットの引き出しとトランクに通暁している人として氏を雇ったのだという。

の画像  K.ブラックウェル氏(右写真)はラッセルの文書を五つの部分に分けて簡単に紹介しておられる。

 一、既刊の書籍と文書の原稿
 二、未刊の文書
 三、未刊の書籍
 四、手紙

 多くのばあいそれまでのところラッセルに来た手紙だけがあり、かれの返事はなかった。かれは、一九五二年まで、下書きを書いたりカーボンをとったりすることがまれであったからである。アーカイヴズでは返事の収集に従事し、たくさんの返事を持っている何人かの人たちと連絡をとった。不幸にして、すくなくとも二つのばあいに、ラッセルの返事は完全に失われてしまったようだ。ウィトゲンシュタインもホワイトヘッドも指定遺言執行者にラッセルの手紙を破棄するよう指示したからである。
 『朝日新聞』一九七〇年、二月二三日号、三ぺージ、「海外トピックス」に「ラッセルの恋文」と題する次のような記事があった。
「カナダのマクマスター大学にある『ラッセル文庫』は、この二月初め九十七歳でなくなった英国の哲学者バートランド・ラッセルについてのあらゆる資料がそろっていることで有名だが、なかでも全十二万通以上に及ぶ個人書簡が最近一部公開され話題を呼んでいる。さすが '二十世紀の巨人' だけあって書簡をかわした相手はアインシュタイン、ホー・チ・ミン、シュバイツァー、J.F.ケネディ、フルシチョフと豪華な顔ぶれ。しかし、最も興味深いのは若き日のラブレターの数々。もっとも生涯の四人の妻のうち、後にめとった三人、そして情事の相手として騒がれた他の二人の女性にあてた手紙は、残念ながら '死後五年問は公開を禁ず' という本人の注文がついている。(AP)」
 以上一〜四は、防酸性のフォールダーに分類整理し、それをいくつかずつ大きな文書箱に入れてあるが、現在整理ずみのものだけで五〇〇箱を数える。ブラックウェル氏はそれらの箱を納めたガラス戸棚の部分に案内して、日本からの手紙を見せてくださった。その中には土田杏村などからのものがあった。
 まだ大まかに整理されただけの分はキャビネットにはいっている。「日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一八号、七ぺージの写真の正面に見えるキャビネットがそれである。
 また以上一〜四はすべてマイクロフィルムに納められている。たとえば、ウィトゲンシュタインの手紙などは、すでに見る人がひじょうに多く、この調子では、早晩破損してしまうことが心配されたからである。しかし原物を見ることがどうしても必要な研究者にはそうすることが許されている。
雑誌『改造』創刊号の画像  アーカイヴズはまた、ラッセル関係のあらゆる記事のゼロックス・コピーも収集しており、それは右の写真の左側のキャビネットに納められている。ブラックウェル氏は『改造』からのコピーを見せてくださった。『日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一八号、八ページに次のようなところがあった。
「また、戦前のラッセルの著述の翻訳や研究を掲載した『改造』をお持ちの方がありましたら、その『改造』を有償購入させて頂けないでしょうか。ゼロックスにとった分は同資料室にありますが、『原本があれば買いたい』との連絡を受けました。」
 五 ラッセルの蔵書
 これはまだアーカイヴズにはない。ラッセル未亡人が、死ぬまで手もとに置き、死後アーカイヴズの所有となる契約になっているからである。ただし「ラッセルの蔵書」('Russell's Library')というカード・カタログだけがある。「バートランド・ラッセル・アーカイヴの哲学者への重要性」に次のようなところがある。
「ラッセルのロンドンの文学上の代理人のために働いているあいだに、わたしはラッセルの書斎の本のリストを作るためにウェールズのかれの家に派遣されるというひじょうな幸運に恵まれた。本を全部引き下ろすのにたっぷり七日間かかり、リスト自体は大判の紙で一五〇ペ一ジを越えた。」
 アーカイヴズにはまだラッセルの蔵書はないが、アーカイヴズが独自に収集購入したラッセル関係の刊本はそろっている。
 その一部に「ラッセルの翻訳」(Translations of Russell)というセクションがあり、わが日本バートランド・ラッセル協会から送付された資料がその大きな部分を占めている。
 アーカイヴズには『日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一九号、一〇ぺージに紹介されているように、Feinberg, Barry ed., A Detailed Catalogue of the the Archives of Bertrand Russell(1967年)があるが、これは三〇〇部の限定版であった。ブラックウェル氏の一九七〇年三月一一日づけの私信に
 「ラッセルの手紙と原稿のカタログは絶版です」
とあるのがこれであろう。
 『ライブラリー・リサーチ・ニューズ』の「ザ・バートランド・ラッセル・アーカイヴ」には「カナダとアメリカ合衆国の重要な図書館の大部分に所蔵されている」とあり、ブラックウェル氏はそれに「ヨーロッパとアジア」と加筆してくださったが、日本では国会図書館にも東大図書館にもなく、国会図書館の全国洋書綜合目録にも見当たらない。しかし最近牧野力氏がそのゼロッックス版を購入された。『日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一九号、一〇〜一一ページに紹介された『ラッセル図書館便り』第一号の一〜二ページに
「本号では Feinberg の Detailed Catalogue of the Archives of Bertrand Russell (1967)の出版いらいの購入物のリストの作成を始めている」とあるが、『ラッセル図書館便り』の原物の記事の中には Detailed Catalogue の補遺となるものがある。また、第一号、八ページには「哲学的な論文はつねに The Philosopher's Index の中に見出すことができる。」
 とある。
 ブラックウェル氏の一九七〇年三月二三日づけの私信に
「わたしは・・・サン・ディエゴ州立大学の Harry Ruja 教授の協力を得て、ラッセルの書目を作成しています。ジョージ・アレン&アンウィン社から出版の予定です。」
 とあったが、『ラッセル図書館便り』、第一号、一九七一年春、一一〜一ニページの「新ラッセル書目」にさらにくわしい記述が出、その一端が『日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一九号、一〇ページに紹介された。
 この「新ラッセル書目」には、
「同書目は三つのおもな部分に分けられるであろう。第一部、「著書とパンフレット」は、約二〇〇の異ったタイトルを、異本を分記するほど詳細に、記述するであろう。約七〇冊が書籍である。第二部は「書籍とパンフレット」−すなわち、主として他の著者たちによる専攻論文へのラッセルの原稿に捧げられるであろう。これらの寄稿は約三〇〇を数える。……第三部は「定期刊行物の論文」(Periodical Articles)のリストとなるであろう。……これまで二〇〇〇以上の異った論文が発見され、毎月新しいものが見つかっている。この部分はほとんど印刷できるほどになっていて、一部(コピー)は研究者がアーカイヴズを訪れているあいだに利用できる。」
 とある。
 わたしはブラックウェル氏から送ってもらった『ラッセルが寄稿した書籍の短いリスト』(Short List of Books Russell Contributed To)のコピーを持っているが、それを送ってくださったときの、一九七〇年五月二一日づけの手紙には
「すぐ手にはいるラッセルの書籍の唯一のリストはかれが寄稿した書籍のリストで・・・。雑なチェック・リストにすぎません・・・」
 とあった。これは第二部のもととなるものであろう。
 第三部は「ラッセルの既刊論文のカタログ」(Catalogue of Russell's Published Articles)というのらしく、一八九五〜一九二三年、一九三六〜一九五五年、一九五六〜一九六三年、一九六四〜一九七〇年、の四冊に分かれ、一冊一冊がかなり厚く、タイプで打ったものに、ハンドライティングで加筆訂正がほどこされている。先に、アーカイヴズにはラッセル関係の新しい文献が展示してあったと誰いたが、それは次のようなものであった。

 Russell, Bertrand, The Autobiography of Bertrand Russell, Bantam Books
 Feinberg, Barry & Kasrils, Ronald, Dear Bertrand Russell (邦訳:『拝啓バートランド・ラッセル様』、講談社/翻刻版:朝日出版社刊、がある。)
 Crawshay-Williams, Rupert, Russell Remembered (『日本バートランド・ラッセル協会会報』、第一八号、一ページ参照)
 Klemke, E. D., Essays on Bertrand Russell. Urbana, Chicago, & London, Univdersity of Illinois Press, 1970
 Watling, John, Bertrand Russell, Edingburgh, Oliver and Boy, 1970. (Writers and Critics)
 Black Dwarf, v.14, n.37: Sept. 5, 1970. ラッセルの書いたものを含むが、その題名は表紙には 'Bertrand Russell's Testament: private memorandum concerning Ralph Schoenman' となっている。

 ラッセルに来た英文の手紙のうち、中国と日本からのものは「中国と日本」(China and Japan)として、いっしょくたにされていた。ブラックウェル氏は
「最近ようやく日本語と中国語が区別できかけてきたところです」
 と言われた。そこでわたしは日本から来た手紙と中国から来た手紙を分けてさし上げた。かなりな分量であったが、中国からのものが大半であった。
 また「外国のアルファベットで書かれた手紙」という約一〇通の手紙があった。そのうち一通だけがアラビア文字のようなもので、残りは全部日本語だった。「平和の鐘建立趣意書」や「日本の一少女より」というのがあった。
 『ラッセル図書館便り』、第一号、二ページに「読書室は週六日開かれている……」と書かれているが、夏休み中だったので土曜は休みであった。
 食事は学校のカフェテリアでとった、ペンシルヴァニア大学のカフェテリアもアメリカでは安くておいしいほうだったが、マックマスター大学のほうがもっと安くてもっとおいしかった。
 その夜は大学の女子寮に泊めてもらった。夏休中はそのような便宜が計られるのである。一ベッド四ドルで、これはわたしたちが泊まったどこよりも安く、窓の外は一望の自然林で、静寂そのものだった。翌朝早くわたしたちはナイアガラにむかって出発した。こどもたちはもっとマックマスターにいたがった。その後家内とこどもは、
「パパはドライサーをやめて、ラッセルを研究することにして、こんどはみんなしてマックマスターに来ようよ。」
 と何度も何度もくり返して言った。

 ●付記
 マクマスター大学の『留学生案内』(Information for Overseas Students)九べージに次のようなところがある。
 「トロント国際空港に着いたときには、CBIE(The Canadian Bureau of International Education)のデスクでチェック・インすること。そこの代理人たちが留学生指導教官にあなたがハミルトンに行く途中であることを知らせ、あたたをハミルトンへのリムジーン・サービスヘ案内するでしょう。このハミルトンヘのサービスは四ドルで、あなたをハミルトンの下町のシェラトン・コノート・ホテルに連れて行くでしょう。」
 トロント、ハミルトン間は四三マイルである。